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- 第一章 -



      一

 夜更けから降り続いていた雪は、もうやんでいた。春休み明けの、この時期に雪が降るのは、珍しいことだった。
 天野純は白い息を吐きながら、
「行ってきます」と半ば事務的に言って玄関を出た。久しぶりの早朝の大気に気が引き締まる思いがした。もっとも、それは朝のせいだけではなかった。
 降雪時独特の静けさと雪景色の通学路は、通い慣れた路とは思えなくて、まるで違う路みたいだ、と純は思った。そして、なぜか突然不安になった。中学最後の担任は誰なんだろう。友達は同じクラスになるのかな。
 純はできることなら、受験に強い担任になって欲しいと願った。
 校内に入ると、クラス分けの掲示があり、その前に多くの同級生たちが集まっていた。純が自分の名前を探していると、右のほうから彼を呼ぶ声がした。
「純、こっちこっち」と、背の高い少年が呼んだ。友人の新井だった。
「おはよ」と純は挨拶して、
「何組?
 また同じだといいなあ」と言って背中を叩いた。
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「残念だ」と、新井は言った。
「一組だよ。お前、五組」
「そっか」
 純は別に落胆するでもなく、そう答えた。そして、新井の言うように五組に自分の名前があることを確認した。
「お前、ラッキーだよ」と、新井は続けた。
「この面子だと、お前クラスで一番だろ、うらやましいよ」
 純はそれに答えずに、担任の名前をじっと見ていた。最悪だ、と純は唇を噛んだ。
「まさか、こいつとはね」
「ん? ああ、若だろ、意外だよなぁ。
 まさか、この大事なところで担任とはね。大抜擢、ってやつだな」
 二人は苦笑して、その場を離れた。純はさっきまでの不安が的中してしまったことにショックを隠しきれなかったが、考えてどうにかなる問題ではないので、あきらめて席に着いた。
 担任の白田は一昨年に教師になったばかりの新米で、もちろんクラスを受け持つのはこれが初めてだった。若というのはいつの間にか、誰かが付けていたあだ名で、今ではほとんどの生徒がそう呼んでいた。彼は最初の挨拶で、受験生の心構えや、最高学年としての自覚など、いろいろ熱心に語っていたが、まともに聞いているのは誰もいなかった。廊下
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からは、他のクラスの生徒たちの笑い声が聞こえていた。周りはもう終わったらしく、その中に新井の姿も見えた。純は目が合うと、小さく手を振って合図した。
 まぁ、無理もないか。純は窓の外を眺めた。校庭は雪かきをしたのだろう、地面が大きく覗いていた。幾人かの生徒が雪遊びをしているのも見えた。初めての担任だもの、熱も入るってもんだよね。純は熱弁を振るっている若を見つめた。
 
 桜並木が葉桜に変わった五月の放課後、純は図書室で本を借りて教室に戻ると、ハーモニカの音が室内から聞こえているのに気付き、ドアを開けるのに躊躇したが、やはり気になってしまい、ドアを開けた。その瞬間、ぴたりと音は止み、ハーモニカを吹いていた少年は純を見つめていた。
「やあ」
 純は他に言葉が見つからなかった。しかし、一旦言葉を吐き出してしまうと、自分でも不思議なほど言葉が続いた。
「まだ、残ってるの?
 ハーモニカの練習してたよね、大沢君」
 大沢と呼ばれた少年は微笑んだ。彼のそのしぐさは少し大人びていて、魅力的だった。
「いい音だよなぁ。
 今さ、これがお気に入りなんだ」
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 彼はもう一度吹いてみせたが、純には彼の言う良さがよく分からなかった。
「で、君は?」
「え?
 ああ、ちょっと図書室に行ってたんだ」
 ふうん、と彼は少し興味を示しながら窓際まで歩いていき、窓を開けた。
 純もそれに続いて、窓際の机に腰掛けた。そういえば、彼と話をするのは初めてだった、ということにいまさらながら気付いて、変な感じがした。
「芥川読んだことある?」
「ないよ」と純は首を振った。何が言いたいんだろう。彼は返答に困ってしまった。
「おすすめだよ。
 読んだほうがいいって」
 彼はそう言って立ち上がると、自分の机から文庫本を取り出して、純に手渡した。
「貸すよ」
「ありがとう」
 そう言って純は表紙を見た。蜘蛛の糸だった。おかしいな、と彼は思ったので、彼に訊いた。
「……でも、これって今度のテストに関係ないよね、何で?」
 彼は苦笑した。その笑い方が先ほどと同じようにとても魅力的だったので、純はどきどきした。
「テスト。
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 テスト。
 テストか、そうね。関係ないね。でも、そんなの関係ないって。いい本を読む。そんで、影響を受ける。それだけでしょ、普通」
 この数分の出来事で、純は彼を好きになってしまったので、何とかこの彼の言葉を自分に理解できるようにいろいろな角度から解釈してみたが、無理だった。
「僕にはそういう考え方はできないな」
 純は本当に済まなさそうに言って、鞄に本を詰め始めた。
「だろうね」
 彼はそう言ったきり、口を開くことはなかった。
 
 その帰り道、純は大沢卓也のことばかり考えていた。テストを気にしないって、どういうことだろう。だいたい、こういう本は最初の一ページを読んでおけばいいんだ、タイトルと作者と最初の一行が一致出来ればそれでいいんだよ。どうせ、入試で使うだけなんだから。こんな昔の本読んで、何が面白いんだろう。そういう、なんて言うか、物事の興味や感性っていうのは、時代と一緒に変わっていくものなんだ。だとしたら、やっぱり昔のものは昔のものでしかなくて、古臭いものなんだよ、多分。
 純はそう思いながらも、卓也の本を今自分が持っているということが不思議でならなかった。なぜそ
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の場で返さなかったのだろう。いや、返すなんて。できるわけないじゃないか。
 純は家に着くとすぐに鞄から本を取り出し、机の上に並べてみた。図書室で借りた本が二冊。そして、卓也から借りた文庫本。三冊の本を手に取り、どうするべきか分からずいらいらして立ち上がると、そのままベッドに身を投げ出した。時計を見ると、まだ六時前で時間はあった。少しだけ読んで、明日返そう。純はそう心に決め、卓也から借りた本を開いた。
 
 突然、部屋のドアを叩く音が聞こえたので、純はびっくりして飛び上がった。立っていたのは、母だった。もう夕飯の時間なのか、と思うと信じられなかった。一時間以上もずっと本を読んでいたなんて。純は自分が信じられなかった。蜘蛛の糸を読んでいるうちに、引き込まれてしまって、そのままずるずると他の短編まで読み続けていたのだ。
 夕飯の後も、純は続きを読み続けた。短編ごとに変わる文体も飽きさせなかったし、何より物語が面白かった。そして、最後まで読み終えると、純は読後感に浸りながら、ぼんやり考えていた。こういうことだったんだ。卓也が言いたかったのは、こういうことだったんだ。
 
 それから、純と卓也はよく話すようになり、純は
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本を読むようになっていった。相変わらず卓也のハーモニカだけは理解できなかったが、卓也が詩人であり、同時に絵描きでもあること、またバンドを組んで音楽活動もしていることを知った。それら全ては、純にとって全くの未知の世界で、いつも驚きでいっぱいだった。自分がいかに何も知らないかを、思い知らされてばかりだった。
 放課後、二人はいつものように教室に残り、話をしていた。純は本を読みながら、卓也はそんな純の眼をスケッチしながら、話をしていた。
「この眼っていう部分がさ、難しいんだよな。この、なんていうか視線がさ」
 へえ、と気のない返事をすると、卓也は舌打ちした。
「純も描けよ。
 ていうか、三島かよ」
 純は三島由紀夫の金閣寺を読んでいた。
「すごいよ、金閣寺。焼けちゃったよ。これって実話だっけ?」
「読んでないよ。三島は興味ない。
 そうじゃなくて、何か描こうぜ。これ貸すから。ほれ」
 卓也は強引にスケッチブックを純に手渡すと、純から本を奪い取って、眺めた。
「三島ねえ。
 ま、今度借りるよ」
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 いいよ、と純は微笑んで見せ、スケッチブックに向かって何か描き始めた。卓也の描いていた、たくさんの眼。その周囲に、道と塀を描いていった。なぜ、そんなものを描こうと思ったのか分からなかったが、何となくイメージとして浮かんできたのだった。その様子を、好奇の目で卓也は眺めていた。
「面白いな、それ」
 卓也は端的な感想を漏らした。そして、
「ちょっと貸してみ」
 と言ってスケッチブックを取り上げると、道にマンホールと電柱を書き足した。それだけで、ずいぶんそれらしさが出てきたので純は感心した。
「君は才能あるよ。僕が保証する」
 
 純は卓也と一緒に描いたスケッチブックを持ち帰り、部屋で眺めていた。見れば見るほど、卓也には理屈ぬきに勝てないんだ、と痛感させられた。決して越えることができない壁というものがあるんだ。純は今、初めて劣等感というものを感じていた。しかし、その感情は心地良いものだった。なぜなら、相手が卓也であったからだ。自分が心から認めた相手だからこそ、それを許すことができた。スケッチブックに描かれた、自分の目。そして描き足した風景。二人で描いたその絵はとてもすばらしかったし、眺めているだけで純は身体の内側から力が湧き上がってくる感じがした。それは、とても不思議な
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気持ちで、初恋とは違った昂揚をもたらした。その感情は、あまりに複雑すぎて良いものなのか悪いものなのかさえ、今の純には判断できなかった。
 
 いつしか陽射しもその強さを増し、生徒たちはみな夏の訪れを心待ちにしていた。期末テストも終わり、一気に夏休みムードに入ったこの日、純は新井と一緒に今終わったばかりの数学の答え合わせをしていた。今回、純はかつてないほどミスが多かった。現に、今答え合わせをした数学の点数でも、新井に負けていた。
「お前さあ、やばいよ、これは」
 新井はそう言うと、合計点の計算を始めた。
「うーん。結果が怖いなあ。
 数学でこの点数はかなりやばいなあ」純は頭を掻いて、困ったようにつぶやいた。
「塾でこれ言ったら、絶対怒られるって」
「あー。行きたくないなあ。今日、休もうかなぁ」
「あのさ、純」
 新井は突然まじめな声で言った。
「お前、最近大沢といつも一緒にいるだろ。
 勉強、してんの?」
「なんだよ。いきなり」純はどきっとした。
「してるよ。前ほどじゃないけど」
 新井はため息の後でちょっと間をおいてから、
「あんまり言いたくないけど、今のお前は相手にな
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らないよ。俺、お前に勝ちたいって今まで思ってたけど、今のお前に勝ってもうれしくないよ。
 学年一位取るんじゃなかったのかよ。これじゃ、一位どころか二桁だぞ」
「分かってるよ」純は返す言葉もないので、いらいらしてその場を離れようとした。
「夏休みは、合宿行くだろ?」
 後ろから新井が訊ねたが、純は答えなかった。
 その帰り道で、純は新井の言葉を思いだしていた。今までの純であったなら、彼の言葉は屈辱的なものだっただろう。しかし、今、純の胸にさほど響いてはいないことが自分自身不思議だった。なぜだろう。純は家に帰るまで、ずっと自問していた。分からないことが多すぎる、と思った。自分のことなのに。
 家に着くと、塾に行く支度をして、そのままベッドに横になった。あらゆるものがもどかしくて、歯痒い気がした。僕は、いろんなことを知ってしまった。もう、戻れない。純はそう考えながらも、それを否定している自分もいることに気付いた。いろんなことを知ってるって? そうじゃない。何も知らない仔犬と同じだ。僕は何も知らないんだ。
 純は起き上がって窓を開けた。何かをしていないと、自分を抑えられない気がして怖かった。薄暗くなった空には月がぼんやり輝いていて、純の心はその光に吸い込まれていった。そういえば、月を見る
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のって、久しぶりだ……。純は自分の心が湖面のように静まっていくのを感じた。そして、その内側から言葉が滲み出てきたので、あわてて机に向かい、書きとめた。
 
  川岸に横たわり
  月の明かりが美しく
  時にはおぼろげに光りながら
  おまえは何を考えているの?
  星々は美しく輝きを放ち
  時の過ぎゆくのを忘れさせ
  川の流れは
  限りなくゆるやかに流れ
  時と共に私を流し去り……
  そのときの私はいったい?
  雲が月に照らされて
  あやしくうごめく
  私は自然の中に身を任せ
  心を自然の中に置き
  目を閉じると
  生命の美しい光が
  私の中で目覚める
 
 書き終えると、満足げに何度も読み返してから、じっと夜空を眺めた。とても穏やかな気持ちだった。まるで、言葉が心の中を浄化して行ったかのよ
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うに。このとき、純ははっきりと悟った。これが芸術の力なんだ。そしてこの力は、今完全に、僕の支えになったんだ。
 
 翌日から、テストの結果が返ってきた。ほとんどは新井と答え合わせした通りだったので、どうやら新井はかなり良い結果らしいと純は直感で感じた。純は自分では気にしないと思っていたのだが、実際に結果を目の当たりにすると、想像以上にショックだった。だが、平均点が思っていたより低かったせいもあり、予想していたよりも良い結果になりそうなのは、ありがたかった。何にせよ、夏休みが来るのはいいことだと思った。
 放課後、純は卓也と共にいつもの窓際に座っていた。話はもちろん、夏休みのことになった。
「合宿?」
 卓也は不思議そうに訊ねた。
「うん、塾の合宿だよ。毎年あるんだ。
 ま、今年のは特別だって言ってたけどね」
「へー。それって、いつからいつまで?」
「あーっと。
 二週間だったかな、八月一日から始まるんだ。一日中、問題集と格闘だよ」
「受験生は大変だ」
「は? 君もそうだろ、他人事みたいに言うけどさ」
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 卓也は笑った。
「うん、確かに。
 でも、なんていうか、実感ないんだよなー。あんまり興味も無いしな」
 そのマイペースなところがいかにも卓也らしいと純は思った。
「ま、夏休みは遊んでられないな。
 受験が終わるまでは仕方ないか」
「純、七月中なら少しは時間あるだろ?
 家に遊びに来いよ」
「もちろん」純は喜んで言った。卓也の家に遊びに行くのは、前々から願っていたことだったので、まさに願ってもない誘いだった。そのとき、純は昨夜のスケッチブックを思いだした。
「そうだ、スケッチブック。
 この間借りてったやつ、あれに昨日、詩を書いたんだ」
「へえ」卓也はうれしそうに笑顔を作った。
「じゃ、その発表会ということで。
 よっし、じゃ、何か書かなきゃな、オレも。すごいの書くから期待しててくれよ」
「そうするよ」
 純には、卓也のその身体から滲み出てくるような、あふれるほどの自信が眩しかった。
「最近、書いてなかったんだよ。ま、充電期間ってやつ?
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 書けるときって一気にガーッて書いちゃうんだよね。そういう時は、楽しいんだけどなぁ」
 卓也はとても楽しそうに話した。輝いている彼の姿は、その自信と一体になってとても魅力的に見えた。
 その後で、卓也は用があるからと言って職員室に向かった。純は理由を訊ねたが、はぐらかされてしまい、結局聞き出すことはできなかった。職員室前で卓也と別れ、純はそのまま帰路についた。卓也が隠し事をするのは初めてだったので、純は何となく嫌な予感がした。テストの点が悪かったのだろうか。それとも他に、何か理由があるのだろうか。考えても分からないということは、充分分かっていたが、それでも頭から離れなかった。明日、もう一度聞いてみよう。純はそう心に決めた。
 帰宅するとすぐ、純はスケッチブックを開いた。目と風景の、例の絵。次を開くと、自分の書いた詩があった。その次を開くと、何も書いていない白紙で、純はそこに詩を書いてみようと思っていた。先ほど卓也が言った言葉を、思いだしていたのだ。卓也は、自分が書こうと思ったら書けるんだ。でも僕は、書こうと思っても書けない。言葉が出てこないから。どうして、卓也は書けるんだろう。どうして、僕は書けないんだろう。
 純はなぜ書けないのか、その理由を考えてみた。しかし、どんなに考えても平行線をたどるばかり
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で、何も見えてこなかった。それどころか、昨夜自分がどのようにして詩を書いたのかすら、思いだせなかった。
 そのまま一時間が過ぎた頃、純はあきらめて卓也に相談してみよう、という結論を出した。そして、夏休みに卓也の家に遊びに行く約束をしたのを思いだし、塾でもらったスケジュールの一覧表を探して、開いた。合宿は予想通り、一日から二週間の予定だった。七月中は、午後だけなのでいつでも遊びに行けそうだった。純はほっとした。
 
 夏休みに入ると、多くの生徒たちは最後の大会を目指し、部活動の練習に励んでいたが、純は毎日陽の当たらない部屋の中で過ごしていた。午前中に宿題をやり、午後から塾に行き、夜は読書という毎日だった。卓也との約束は二十八日に決まっていたし、来月は合宿があるので、できれば今のうちに宿題を終わらせてしまいたかった。
 あれ以来、純はスケッチブックを開くことはなく、日々時間に追われるような生活をしていたが、無駄に悩まなくてすむので、かえって都合がよかった。
 約束の前日になって、卓也から電話がかかってきた。卓也の家までの道順はもう聞いていたので、時間の確認だけの短いものだったが、久しぶりに聞いた卓也の声は、とても懐かしい気がして、なんだか
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少し感傷的になってしまった純は、スケッチブックを開いてみたくなった。
 白紙のページを開き、それに向かっていると、ざらざらした紙の表面が模様のように見えてきたので可笑しかった。純は、思いつくままに数学の公式を書き並べていき、空いているところに図形を描き、そして英文を書いた。これが今の僕だ、と思った。それから、前のページを開き、詩を見つめた。これも、僕だ。僕の中には、二人の僕がいるみたいだ。でも、それはまだ、完全じゃなくて、僕は、僕を演じているに過ぎないんだ。だから、書けないんだよ。純はスケッチブックを閉じて、鞄に入れた。明日の準備をしておこう。純は立ち上がると、準備をしようと考えたが、スケッチブックのほかに何も必要のないことに気付いた。そして、前日に準備まで始めた自分が滑稽に思え、可笑しかった。
 翌日は朝から暑かった。純は、塾の帰りにそのまま卓也の家に行くことにしていたので、鞄にはスケッチブックが入っていた。塾に向かう途中も、純はずいぶん機嫌が良かった。そして、それは時間と共に肥大し、塾が終わると誰よりも早く教室を飛び出した。
 中学校の裏門から続いている用水路に沿って十分ほど歩くと、卓也の家が見えてくるはずだが、夜なのでよく分からなかった。しかし、表札に大沢と出ていたのですぐ分かった。チャイムを鳴らすと、
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待っていたかのように、卓也本人が玄関に出てきた。
「上がれよ」と卓也は笑顔で言い、ドアを開けて純を招いた。
「おじゃまします」と純は恐る恐る中に入った。そして、さりげなく中の様子を確認すると、玄関の目の前に階段があり、その奥のほうからテレビの音らしいものが聞こえていたので、奥はリビングらしかった。卓也は、そのまま階段を昇っていき、純はそれについていった。親が出てきたら挨拶するつもりだったが、出てこなかったので純はほっとした。階段を昇ってすぐ目の前の部屋が卓也の部屋らしく、卓也は後ろを気にもせずにそのまま部屋の中に入っていった。純もそれに続き、ドアを閉めると卓也は絨毯の上に座り込んで、
「ようこそ」と言った。
「いい部屋だね」
 純は物珍しそうな感じで、四畳半ほどの部屋をくるりと見渡した。たくさんのスケッチブックが無造作に置かれ、二本のギターが部屋の隅に立てかけられていて、机の上には文庫本がぎっしり並んでいた。まさに、卓也の部屋らしい感じだ、と純は思った。
「で、例のやつは持ってきた?」
「持ってきたよ」
 純は鞄からスケッチブックを取り出した。
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「いいねえ。じゃ、おれも」
 と言って卓也は机の引き出しからノートを取り出した。
「ちょっと待った。
 えーと、ここからかな」
 卓也はノートをめくり、新しいところを開いて純に渡した。純も、スケッチブックを開いて卓也に渡した。そして、二人はお互いの詩を静かに読んだ。
 卓也の詩は、純の想像していたものと少し違っていて、詩というより、詞と呼ぶべきものだと思った。読んでいると、音楽が聞こえてきそうな、そんなものだった。
 卓也も、純の詩を繰り返し読んでいた。純は、そんな卓也の様子が気になっていたが、良いのか悪いのか、また気に入ったのかどうか、その表情からは何も窺い知れないのがとにかく不安だった。 「いいね、この詩」
 長い沈黙の後、卓也は答えた。
「よかった」純はほっとした。
「このさ、問いかける感じがすごく合ってるよ、文体と。
 もっといろいろ書いてみればいいんじゃない?もう少し読んでみたいよ、うん」
 意外な卓也の絶賛に、純はかなり上機嫌だった。しかし、それ以来書けないことを卓也に話した。すると卓也はちょっと考えてから、
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「ひとつ訊くけど、今まで解くことのできなかった問題に出会ったことはあるかい?
 理解できない問題に出会ったことは?
 無いだろ、つまり、簡単なことだよ。君は、これまで答えのある問題ばかりを相手にしてきたってことだよ。だから、解けない問題の解き方が分からないのさ」
 卓也はそう言って、スケッチブックの次のページをめくって、純の目の前に置いた。
「ほら、ここにあるのはみんな解ける問題ばかりだ。三角錐の体積も、正六角形の内角の和も、二次方程式だって、みんなみんな知ってるだろ。それは、答えがあるからなんだよ。だけど、詩を書くってことには答えは無い。それが詩だと思えば、詩になるんだよ。いいかい、この詩を書いたとき、君はどんな状態だった? 何か覚えてるか?覚えてないだろう、言葉が流れるままに書いたんだろう、だったら、それを頭で考えて書くなんてできないんじゃないの? 少なくとも、今は、ね」
「解けない問題を解く」
 純は卓也の言葉を反芻した。卓也の言ったことは確かに的を得ている気がした。
「ようするに」と卓也は付け加えた。
「君はまだ、詩を書く技術と経験が足りないってことさ。詩を読みなよ。いろんな人の詩を、さ」
 そして卓也は机の上から文庫本を取り出した。
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「谷川俊太郎とヘッセがいいんじゃないかな」
 卓也は二冊の本を手渡した。
「ヘッセの詩は読みたかったんだ」
 純はうれしそうにいいながら、いくつか読んでみた。
「音楽でも聴くか」
 卓也はラジカセを引っ張り出してきた。
「今、これがお気に入りなんだよね」
 そう言って純にCDを見せた。
「何……ニール・ヤング? 知らないな」
「そいつは残念。ま、聴いてみなよ」
「そういえば、音楽の話をするのは初めてだよね。バンドのこととかさ、聞いたことなかった」
 これはいいきっかけだと純は思った。前々から、このことを聞いてみたかったのだ。
「あれ、そうだっけ。バンドっていっても、たいした事してないよ。ギターもたまにしか弾かないし。活動なんか全くしてないね。みんな受験生だしなあ」
「さっき詩を読んだときに思ったけど、なんかさ、曲の歌詞みたいな部分があるよね。それはそういうのを狙って書いてる?」
「そんなことないけど。歌詞みたい? そうかなあ。そんなことないけどなあ」
 意外にも卓也にとって、それはほめ言葉ではないらしかった。卓也は言葉のみで表現していたよう
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で、それに音楽という要素が加わることを良く思っていないような感じだった。
「ん、まあ、でも、影響は受けてるだろうな、それは否定しないよ」
 それでも、卓也は一応そのことを認めた。自分では気付いていないことだったので面食らっただけという感じにも見えた。
「僕には書けないタイプの詩だよ」
「純は音楽ってあまり聴かないだろ?
 だからだよ」
 卓也はそう言って、CDを何枚か取り出すと純に見せた。
「こいつの書く詩がまたすごいんだよ。
 そう、詩。歌詞じゃなくて、何ていうか、文学少年の匂いがするっていうのかな、まあ、読んでみ」
 純は受け取ると、タイトルを見た。THE WORLD WON'T LISTEN 世界は聴かないだろう、だって? 純はその自虐的なまでのタイトルに衝撃を受けた。
「すごいタイトルだ」
「歌詞を読むとさらにすごいんだ。あ、でも、その前に一度聴いてからにしなよ」
 卓也はそう言ってCDをラジカセに入れた。とても特徴のある声だと純は思ったが、あまり興味はなかった。
「あのさ」純は話題を変えようと思った。
「絵、見せてよ」
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「おっ、そうだな。最近のは、これかな」
 そう言って卓也はスケッチブックを取り出すと、目の前で広げて見せた。そこには、祈る人々が描かれていた。
「タイトルはズバリ。『祈り』だ」
「そのまんまだね」純は笑った。
「うん、そうなんだ。でも、祈るって行為は面白いよ。みんな、何に対して祈ってるんだろう。ねえ、不思議だと思わないか」
「考えたこともない」
「純も、受験前には神社に御参りに行くんだろ?」
「当たり前だよ。何言ってんの」
「何で当たり前なの? だって、受験は実力で勝ち取るものだろ、何で自分以外の誰かに頼るわけ? それが、不思議だって言ってるのさ」
「運も実力のうちだよ。当日に風邪ひいて失敗したっていう話もあるじゃないか。そういう部分のことでみんな行くんじゃないの?」
 ふうん、と卓也は納得できないといった顔をした。
「だって、みんな行くんだろ。みんな行ってるのに、その中で合格するやつとしないやつが出てくるのはどうしてなんだ? 君の言ってることが正しいなら、全員が運を味方につけてるってことになるよな。でも、風邪ひくやつはひくし、落ちるやつは落ちるよ。神様ってのは、不公平なのか?」
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「そういう、試練を与えるんだよ」
「はっ。金払ってまで、試練なんかいらないって。なあ、君はどうしてそんなに世間に流されるんだよ」
「別に流されてるわけじゃないよ」
「まあ、別にそれが悪いって言ってるんじゃないよ」
「そう聞こえるよ」
「そうじゃなくて、そういう中途半端な、儀式的なことにするのは失礼じゃないかって、そう思うんだ。信仰って、本気でやるものなんだと思う。信じてもいないくせに、困ったときだけすがりつく、その姿勢が嫌いなんだ」
「すごいよ」
 純は卓也の生真面目さというか、純粋さを、そしてここまで真剣に考えていることに、素直にすごいと思った。
「ま、何ていうかさ。
 ちょっと考えると変なことって、多いよな」
 不意に、電話の音が聞こえてきた。と思っていると、階段を昇ってくる音が聞こえたので、純は緊張した。すると、ドアをノックする音が聞こえ、男性の声が聞こえてきた。
「卓也、電話」
「ごめん、ちょっと待ってて」
 卓也はそう言うと部屋を出て行き、階段を降りて
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行った。純はひとりになって気が緩んだのか、大きくため息を漏らし、立ち上がって辺りを見回した。机の上にやりかけの英語の問題集があり、鉛筆立てには、芯がやけに長い、不思議な削り方をした鉛筆と、沢山の色鉛筆がぎっしり詰まっていた。そして、古い一枚の写真が目を引いた。卓也の幼い頃のものかと思ったが、そこに写っていたのはブランコに乗っている女の子だった。色褪せていて、服や肌の色はよく分からなかったが、麦藁帽子をかぶり、半袖にひらひらしたスカートをはいているその女の子は、微笑んでいた。三歳くらいだろうか、と純は思った。いったい誰だろう。その写真の劣化具合から、母親かしら、とも思ったが、仮にそうだとしてもなぜこんなに小さい頃の写真を飾る必要があるのか、分からなかった。
 写真を手に取って見ようと手を伸ばしたところで、階下より足音が聞こえてきて、すぐに階段を昇る音に変わったので純は驚いて元の場所に座り込んだ。
「ごめん、悪かったな。はい、これ」
 卓也はコーラを大きなペットボトルごと持ってきて、氷の入ったグラスを純に手渡した。
「電話って?」
 純は写真のことを訊きたかったが、それはやめておこうと思った。
「ん、浅野だよ」
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「浅野さん? 同じクラスの。
 え、何、付き合ってんの?」
 純は驚いた。
「違うよ」卓也はあっさり否定した。
「だって、幼馴染だもん。話くらいするだろ、普通」
「しないよ、普通」
 純は大げさに手を振って、そう言った。
 卓也は立ち上がって窓を開け、純にそこから見える向かいの家を指差した。
「浅野ん家」
「あそこ?」
 純はびっくりした。向かいの家が同級生で、しかも同じクラスだなんて。いったい、どんな気持ちなんだろう。純は訊きたいことがありすぎて頭がぐるぐるしてしまって、何から訊ねていいやら考えていると、卓也が笑って言った。
「何考えてんだよ。
 また変なこと考えてたんだろ」
「違うって。そうじゃないよ。何ていうか、びっくりしただけだよ。だって、初耳だったんだから。みんな知ってるの?」
「知ってるんじゃないの。
 あ、もしかして、お前好きなの?」
「違うって」
「またまた。いいよ、ごまかさなくても」
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「ほんとに。そうじゃないよ」
 卓也は純の慌てる様子が可笑しくてたまらないといった感じで、にやにや笑っていた。
「でも、何の電話だったの」
「君によろしくってさ」
「またそんなことを言う」
 純は少しむっとした。
「怒るなよ。
 この間貸したノートをいつ返すかって話だよ。君のを丸写しした、英語のね」
「えー、それだけ」
 純はちょっと期待はずれな感じだった。
「で、純のオンナ関係はどうなの」
「いないよ、そんなの」
「そんなわけないだろ。中三にもなって、好きな人くらいいるだろ?」
 純は恥ずかしくて困ってしまった。こういうことは、人に話すものではないと考えていたので、普通にこういう話ができる卓也が少し異常に思えた。
「そりゃ、まあ、いる、かな?」
「かな? かなってなんだよ。いるんなら話そうぜ。な、な」
 純は黙ってしまった。なんで、こんな話になったんだろう。あんまり、言いたくないんだけどな。純はいろいろ悩んだ末、諦めて話すことにした。
「絶対に内緒だよ。それは約束だからね。
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 去年の運動会、覚えてる? 前の日に雨が降って、それがまだ残ってた。でも、砂をかけて何とか出来る状態にはなったよね。で、男女混合リレーに、出たんだ」
「ああ、それ、覚えてる。転んだの、見てたからな」
 純は胸にちくりと針が刺さる気がしたが、笑顔で頷いた。
「そう。転んだんだ。ひとり抜こうとして、外側に行ったらちょうどグラウンドが湿ってるところで、完全に転びはしなかったけどそこで遅れた」
「うん。で、それがどうしたの」
「そのとき、結局僕たちは四位だった。三位までは点数が大きかったのに、期待に答えられなかったんだ。あの時、僕が転ばなかったら、そこでひとり抜いて三位に入れたはずなのに、僕のせいで負けたんだ」
「気にしすぎだろ、それ」
「そうかもしれない。でも、ゴール地点で悔し涙を流してるあの人を見たら、僕は、自分がとんでもなく悪者になってしまったような気がして、どうしようもないんだ。あの人を悲しませてしまったのが、僕自身だということがゆるせないんだ」
 卓也は黙って聞いていた。その表情には、もう笑いはなかった。
「好きなんだ、その人が」
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 純は頷いた。
「あの時、あの場所で、僕は自分がこの人を大切に思っていることに気付いたんだよ。でも、このときのことがあるから何も言えない。どうすることも出来ないんだよ」
「で、そいつは誰なんだ」
「佐々木」
「まじかよ。佐々木。副会長の。お前、チャレンジャーだなあ。競争相手いっぱいだぞ、あいつ。しかも、浅野の友達じゃんか。よく来てるよ、佐々木。見たことあるもん」
「うそ」
 純はどきっとした。そして、一瞬ありえないことを想像してしまった自分が恥ずかしかった。
「そっか、佐々木ねえ。今度浅野に言っとくよ」
「ダメダメ。絶対にダメ」
 純はもう紅くなっていた。だから余計に、卓也はからかってみたくなった。
「ばかだな、卒業したらもう会えないんだぞ。言っとけよ。好きだって告白しとけよ」
「言えるわけないって。それよりも、卓也はどうなんだよ」
「オレは、いない」
「それはないんじゃない?人にここまで言わせといてさ」
「悪いけど、ほんとなんだ。それに、今好きな人が
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いたとしても、辛くなるだけだから」
「どういう意味? それは」
 純は何となく、その言い方が気になった。
「別に」卓也は静かにそう言った。
「深い意味はないよ。ただ、そういう気分じゃないんだ、今は。それに、恋愛は必要悪だ。あんまりするもんじゃないよ」
 卓也は何か隠していると思ったが、純はそれを訊かないことにした。誰にでも話したくないことはある。僕だってそうだ。親しいからこそ言えないことだってあるはずで、自分から言い出すまで待とう、と思った。
「もうこんな時間だ」純は時計を見て驚いた。
「そろそろ帰るよ」
「な、今日泊まってけよ。平気だろ?
 明日の午前中に帰れば平気なんだろ、な」
「いや、それは悪いよ」
 突然そう言われても、親に連絡しないといけないし、何より卓也の親に迷惑がかかると純は考えた。だから、そう言われてもどうしていいか分からなかった。
「平気平気。オレ、ちょっと親にこのこと言ってくるよ。待ってて」
 卓也は純の返事も聞かずに部屋を出て行った。純はどうするべきか考えていたが、階下では何やら騒がしくなっていたので、これはきっと、卓也が反対
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されて怒られているんだろうな、などとぼんやり思いながら、スケッチブックを鞄にしまい、帰る支度を始めていると卓也が戻ってきた。
「純、今布団持ってくるから、この辺少し片付けておいてよ。あ、家に電話するだろ、来いよ」
 こうなってしまうと、もう断ることは出来なかった。純は仕方なく、卓也の後について行き、廊下にある電話を借りて自宅に電話をすると、母は急なことでとても驚いていたが、迷惑をかけないようならかまわないと言った。あまりにも物事が順調に進んでしまうので、純は拍子抜けしてしまった。
 その後、卓也の部屋に二人分の布団が敷かれ、それこそ足の踏み場もない部屋になってしまった。
「純、目覚まし必要か?
 何時に起きる、明日」
「別に、いらないよ。勝手に起きるから」
「そっか。電気消すぞ。
 おやすみ」
「おやすみ」
 とても静かな夜だった。寝返りの音と時計の音しか聞こえない、とても静かな夜だった。純は、なかなか眠れずにいろいろなことをぼんやりと考えていた。
「純、起きてる?」
 卓也が囁くように言った。
「起きてるよ」
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「純はさ、何になりたい?」
「将来何になりたいかってこと?
 うーん、考えたことないな、そんな先のこと」
「そっか」
 卓也は何か考えているようだった。
「おれは、詩人になりたい」
「うん」
「でも、詩人になるための学校なんてないんだ。おれはどうしたらいいんだろうな」
「それは高校のこと?」
 卓也は答えなかった。だから、純もそれ以上訊かなかった。それからずいぶん時間が経ってから、卓也はぽつりと言った。
「なんでもない。おやすみ」
 純は静かに卓也を見た。本当は、違うことが言いたかったんじゃないか、と何となく思った。そしておやすみ、と返すとそのまま眠った。
 
 翌朝、純が目覚めたときには、もう卓也の姿はなかった。純は階段を降りていき、奥のリビングのほうに歩いていった。
「おはよう」
 卓也はリビングのテーブルについていた。
「飯、食うだろ。そこ座れよ」
 言われるまま、純は卓也の向かいに座った。
「起こしてくれればいいのに」
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「いや、別にまだ早いし」
「誰もいないの?」
 純は辺りを見回した。人の気配はまるで感じられなかった。
「いないよ。出かけた。今、忙しいからな。二人とも」
「そうなんだ」純はほっとした。
 食事の後、少し話をして、純はそのまま帰ることにした。一度家に帰らなくてはいけないと思ったからだ。
 玄関を出ると、卓也は純に握手を求めてきた。
「じゃあな。がんばれよ、純」
「うん、ありがとう。今日は楽しかったよ」
 そして純は何度も手を振りながら、自転車に乗って帰っていった。その背中に、卓也はさよなら、とつぶやくように言った。
 家に帰ると、予想していた通りに、母がいろいろ訊いてきたので、いちいち細かく説明しなければならなかった。相手に歓迎され、良くしてもらったということが分かると、母は安心して、今度は家に泊まってもらったら、と言った。その考えには、純も大賛成だった。合宿が終わったら、卓也を家に呼ぼう、と純は思った。
 
 八月に入り、合宿が始まると、毎日がとても早く過ぎていった。
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 窓の外からは、蝉の鳴き声が響き、室内では鉛筆の走る音が響き渡っていた。そんな環境のなかで、一日が進んでいき、息抜きといえばこの合宿中流行していた漢字尻取りで、ある意味それも勉強の一部だった。
 一週間が過ぎ、合宿も折り返しとなった頃、みんなで花火をすることになり、夕食の後で近所の公園まで歩いていった。純は新井と一緒に歩いていた。
「想像はしてたけど、今年はやっぱりきついな」
 新井はここまでの合宿を振り返って言った。確かに、今年の合宿はペースが速かった。
「受験だから当然だよ」
 純は新井の背中を叩いた。そうやって口に出すことで、自分に言い聞かせているような素振りだった。
「純は、志望校どこにすんの」
「まだ決めてないけど、附属がいいな。三年後にまた受験はしたくないし」
「確かに」新井は頷いた。
「もう決めないといけないんだよな。はあぁ。ほんとに受験って気が重いよ」
 公園ではもうすでに、講師たちがいつもは絶対に見せないような楽しそうな顔でバケツを持ち、花火を沢山抱えて立っていた。その周囲では、先に到着していた生徒たちが花火を始めていた。
 二人が講師に近づくと、花火の束を手渡したの
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で、それを受け取り、さらに蚊取り線香にも火を点けてもらった。二人は仲間の元に向かい、花火を始めた。
「線香花火はないね」
「最後に落ちるからだろ」
「あ」
 なるほど、と純は思った。やっぱり、気にするんだ。そのとき、卓也が流されるな、と言ったのを思いだした。確かに、そういうことにどんな関係があるんだろう。そうだ、考えてみると何か変だ。 「別に、そこまで気にすることないのに」
「気にするやつは多いよ。
 それに、塾としてもまずいんだろ、そういうのは」
 そういう社会的な立場や周囲との軋轢など、そういう自分以外のものを考えなければ動けない不自由さに、純は嫌な気分になった。そういう、大人のずるさのようなものが不愉快だった。自分も利用されているだけなのかしら。ふいにそんな考えが頭をよぎった。そして、このとき生まれた不快感は、昼間見た入道雲のように、徐々に肥大していった。
 それからの日々は、とにかくきつかった。暑さのせいもあるが、それよりも精神的に自分を追い込むようにしなければならなかったことが純には辛かった。花火の一件で生まれた不快感が生ぬるい風のようにまとわりついて離れなかったので、それを振り
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払おうとすればするほど、純は自身から勉強する気力がなくなっていくのを感じた。
 それでも純は合宿での勉強をきっちり終え、そうするとやはり充実感や達成感というものはそれなりに得られたので、とても満足した様子で帰宅した。
 家に帰ると、母が出迎えていた。
「おかえり」と母は二週間ぶりの挨拶をすると、自分の部屋に向かおうとする純を呼び止めた。
「純、友達から忘れ物を預かってるわよ」
「忘れ物?」
 純は身に覚えがないので少しどきどきして、記憶をひっくり返して考えてみたが、分からなかった。
「ほら、泊まりに行ったときの。
 昨日、突然来たのよ、何て言ったっけ、あの子」
「卓也」
「そう、その子。
 純君が忘れていったから、届けにきました、って言ってたのよ。違うの?」
「何を持ってきたの?どこにあるの、それ」
「部屋に置いといたけど。後でお礼言っときなさいよ」
「うん、ありがとう」
 そう言うより早く、純は部屋に向かっていた。卓也は、いったい何を持ってきたのだろう。純は急いでそれを探すと、机の上にスケッチブックが置いてあった。純はすぐにそれだと分かった。しかし、そ
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れは純のものではなく、卓也のものだった。それなのに、なぜ忘れ物だと言って持ってきたのか、理解できなかった。
 純はすぐに、開いてみた。するとそこには、卓也からの手紙が書かれていた。
 
   純へ
 こういう形で君に話さなくてはならないことを、ゆるしてほしいと思います。
 僕は、今日、引っ越します。学校も、転校します。きっと、もう会うことは出来ないでしょう。だから、こういう形で君に伝えることをゆるしてほしいと思います。
 君と、浅野以外の人は、始業式の日にこのことを知るでしょう。何ていうか、表面だけのお別れ会というのがたまらなく嫌なので、先生にもそう言っておきました。
 落ち着いたら手紙を書くよ。だから、きっと、また会おう。
              大沢卓也
 
 純は呆然として何度も何度も繰り返し読んだ。信じられなかった。卓也がいなくなってしまったなんて、どうしても考えられなかった。純は部屋を飛び出した。
「お母さん」
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 純は大声で母を呼んだ。いままでそんな様子を見たこともない母は突然のことに驚いた。
「どうしたの。なに?」
「卓也は、何か言ってた?」
「あー、そうね。
 んー、別に、言ってないけど」
 純は落ち着いたのか、それとも落胆したのか、どちらにせよ肩を落として部屋に戻っていった。
 ベッドに横になると、純は静かに、声も上げずに泣いた。どんなに抑えようとしても、涙が止まらなかった。
 しばらく泣き続けて、呼吸がおさまってくると起き上がってスケッチブックをまた開いてみた。すると、次のページに、まだ続きがあった。それは、短い詩のようだった。
 
  我らの未来は
  理由なく、
  私が 保証する
 
 このとき純はやっと、現実を受け入れることが出来た。卓也のこの言葉は、純をとても勇気付け、そして励ました。
 机の上には、卓也から借りた詩集がまだそのままの状態で置かれていた。いつか、これも返しに行かなくちゃいけないな。純はいつか必ず、卓也と再会
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を果たすことを心に決めた。
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