ホーム > 小説 > 青い春風 第二章


- 第二章 -



      二

 卒業式はあいにくの曇り空の下で、静かに行われた。純は、みんなが笑顔だったことに多少驚いていた。卒業式は、泣くものだと思っていたから。
 式の後、一旦教室に戻った純は同級生との最後の時間を楽しみ、そして別れた。その様子は至って普通で、明日からもまた会えるのではないかと錯覚してしまうほど、変化のないものだった。  おそらくこの時点では、彼らのうちの誰も、「別れる」ということの意味がまだ分かっていなかった。今までは同じ道を歩いてきた者たちが、これからは全く別の道を歩み、そしてもう二度と交差しない。そういう事実を真摯に受け入れるには、もうしばらくの時間が必要だった。それは、純に対しても言えた。
 校門前で純は母と新井、そして彼の両親が話しているのを見つけた。
「純、お疲れ様」
 母はそう言って笑顔で迎えた。純は新井の両親に挨拶をすると、新井と握手をした。
「な、高校でもがんばれよ」
 新井はそう言うと、力を込めた。
「まあ、のんびりやるよ。
 って痛い痛い」
 新井のあまりの握力に純は悲鳴を上げて振り払おうとしたが出来なかった。新井は可笑しそうに笑っ
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ていた。
「いくらエスカレーターがいいからって、そこまで安全圏に行かなくてもよかったのに。
 もったいない」
 新井は手を離すと、そう言って別れを惜しんだ。純はそれを聞き流すと、
「写真、撮るか。一緒に」と言ってカメラを出した。
 
 終わってみると、それはあっけないものだと純は思った。もっといろいろあるかと思ってた。でも、現実はこんなものらしい。母の運転する車から、外を見ると同級生が歩いているのが見えた。今日まで、僕たちは一緒だった。でも、明日からはもう違う。他人になるんだと思うと、少し寂しい気もしたが、それはただの感傷に過ぎないのかもしれないと思った。
 家に帰ると、着替えもそこそこに卒業文集とアルバムを開いてみた。純は、集合写真を見ながら中学生活を振り返っていた。しかし、彼のもっとも大切な思い出を共有する人物はその中にいなかった。純は卓也のことを思いだしていた。そして、卓也もそろそろ卒業式だな、と思った。
 純と卓也は、その後も手紙のやり取りを続けていて、近況などを知らせていた。実際に会うことはなかったが、つながっていることが純にとっては重要
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なことだった。
 それから、純は文集から興味のあるものだけを選んで読み始めた。新井のいかにも優等生らしい文章。彼らしいと、純は微笑んだ。佐々木の感傷的な言葉に隠された欺瞞。卒業というイベントを自ら演出して高めようとしているように感じられ、そういう計算が鼻に付いてしまった。それで一気に冷めてしまって、純は読むのをやめて自分のページを探すことにした。若に見つかったら絶対に注意されると思い、文集委員に直接手渡した自分のページ。名前も、題名もないページ。まさか僕のものだとは誰も思わないだろう、と想像すると、楽しかった。そして、真っ白な自分のページを見つけると、純は愕然とした。名前が入っていた。誰が書いたのだろう、と不思議に思うと同時に、怒りを覚えた。勝手なことをした人物がいることに腹が立った。しかも、これは卒業文集なのだ。修正がきかない。
 純は文集とアルバムを閉じて押入れに投げ込んだ。もう二度と開くことはないだろう、と彼は思った。それから、制服を脱ぐとゴミ袋に押し込み、外へ飛び出した。どこに行きたいのか、自分でも分からないうちに、自転車をこいだ。必死にこぎ、気が付くと自分が全く知らない場所にいることに気付いた。それでも走っていると、やがて川原が見えてきたので、土手を降りて川岸まで行くとそこに座った。辺りはもう薄暗くなってきていて、帰れるのか
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どうかも分からず、次第に不安になってきた。純はゴミ袋から制服を取り出すと、川に投げ込んだ。流れていきながら沈んでいく様子をじっと見つめ、純は過去と決別した。卓也と出会い、新しい自分を見つけ始めた純にとって、これから本当の自分探しの旅が始まるのだった。
 
 その後どうにか帰宅したが、もうずいぶん遅い時間になっていた。純は怒られるのを覚悟して玄関を開けたが、特に何も言われないのに拍子抜けしてしまった。居間に入ると父と母がそこにいて、おかえり、と言った。
「夕飯は食べたの?」
 と母は訊ねた。そう言われると、お腹が空いてきたので純は首を横に振って椅子に座った。なぜ何も言わないんだろう、と純は訝しく思ったが、自分から火種を持ち込んでも仕方ないので何も言わなかった。
「新井君ね、早速今日同窓会だって言ってたけど、純もそうだったの?」
 その母の言葉で純は納得した。この場は勘違いさせておくほうが懸命だと思ったので、曖昧に頷いた。
「純」と突然父が口を開いた。
「今日は行かれなくて悪かったな」
「いいよ、別に。
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 仕事休んでまで来てもらうのは悪いよ。入学式もいいから、気を使わないでよ。お願い」
「おっ、言うようになったな」
 父はうれしそうに笑った。顔がずいぶん紅くなっているので、いつもより飲んでいるのだろう、と純は推測した。
 
 食事を終えると、そのまま部屋に戻っていき、卓也に手紙を書き始めた。純は、いつも悩んでいた。詩も一緒に送りたいが、どうしても怖くて送れないのだ。あの日、卓也と見せ合った詩を純は自分なりの基準にしていて、あの詩と同じくらいの詩でないと、見せられないと思っていた。しかし、実際に書くものはどうしても納得出来ないものばかりで、悩んでいたのだった。純は、今日卒業したこと、予想に反してみんなが陽気だったこと、文集を読んで怒りを覚えたことなど、今日の出来事を書き連ねていった。そして、最後に迷った末、高校にはあまり期待していないんだ、と一言書き添えて封をした。
 書き終えた手紙を机の隅に積まれた教科書と問題集の上に置くと、彼はベッドに横になって考えた。僕の周りの世界って、なんて薄っぺらなものなんだろう。どうしてもっと早く、気付かなかったんだろう。僕は、僕の居場所がここにあると思ってた。でも、それは勘違いで、ただ、ここにいただけ。それだけだったんだ。僕の代わりなんていくらでもいた
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んだ。それは僕でなくても、いいわけで、そう考えると、なんて恐ろしいことだろう。
 純は今日の卒業式で、もし自分がいなかったら、と空想してみた。自分の席が消えていて、でもそこは空白でなくて席をひとつ詰めて置かれただけ。名簿も自分の場所が消え、しかし同じように空白ではなくて次の名前がそこに入っている。そこに必要なのは、個人ではなくて人数だった。割り当てられた人数がそろっていればいいわけで、そこに個人が必要なのではなかった。生徒は、ただの番号に過ぎなかった。
 僕が僕として見られるためには、どうすればいいんだろう、と純は考えてみた。創作。僕は、僕のような人たちのために、何かを創らなくてはならない。しかし、そう思ってみたものの、一体自分が何を、どうすればいいのか、全く分からなかった。
 
 高校に入学してから一ヶ月も過ぎてくると、生徒たちの名前と顔が一致してきて、性格まで分かってきた。新しい学校にも慣れ、電車通学にも慣れた。純の生活は、中学時代とあまり変わりはなかったが、唯一違うものは放課後の自分の時間が増えたことだった。もう受験の心配もないし、学校の授業は余裕だった。それで、純は図書室をよく利用していた。図書室はほとんどいつも同じような顔ぶれで、利用する人数も少なかったので、とても静かだっ
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た。図書の貸出などの手続きは図書委員の人たちが交代でしていたが、水曜日には同じクラスの青山美紀がそこにいたので、親しみやすい彼女のいるときに図書室を利用することが多かった。二人は、自然と仲良くなっていった。
 ある日の放課後、純は図書室に行こうとして教室を出ると、前を歩く美紀の姿を見つけた。純は話しかけようと思うものの、どう切り出せばいいのか分からなかった。図書室では気軽に話せるのに、それ以外の場所だと話せなくなるのはどうしてだろう、と純は考えた。
 美紀の後ろ姿を見ていると、純は何ともいえぬ恍惚の甘い囁きを感じた。それは、胸の内側からじわじわと湧き上がってきて、純の全身を包み、痺れさせていった。
 どうせ図書室に行くんだから、と純は考えた。今話しかけて、気まずい思いをすることもないよ。でも、この距離はよくないな。
 純は、廊下で一旦立ち止まった。美紀に後をつけてきたと思われるのを恐れたからだ。それは、どう考えても悪い印象を与えることが明白だった。純はふと、窓の外を眺めてみた。猫の額ほどの校庭のほかには、土が見えないのに気付いた。折り重なるように続くコンクリートの建物の先に、灰色の空が浮かんでいた。
 そのとき、純は卓也の手紙にあった「色彩」につ
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いて思いだした。その手紙には、空の青さと、山の緑の深い色彩について書いてあって、山の色には季節がある、ということを卓也は発見して、自然に存在する色の多さに驚いた、というようなことが書かれていて、純は今、自分の目の前にある灰色しかない景色がいかに味気ないものなのか、実感として感じていて、せめて晴れていたらよかったのに、と思った。それでも、時折雲の隙間からこぼれ落ちる五月のやわらかい光が、純の心を和ませた。それは、教会のステンドグラスのように優しく、まるで天使の通り道のようだと思った。
 純がそのまま外を眺めていると、
「天野」
 と、突然誰かが話しかけてきたので驚いて振り返ってみると、同級生が立っていた。
「なにしてんの?
 途中まで一緒に帰らん?」
 純は驚いた反動で笑いながら、
「ああびっくりした。
 飯田くんか」と言った。
 飯田と呼ばれた生徒は、純の反応があまりに面白かったらしく、にやにや笑いながら純の肩に腕を回した。
「よし、行こうぜ」
「ちょっと待った」
 純は図書室に行こうとしていたので飯田を止めよ
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うとしたが肩を掴まれているので自力では止まれず、そのままずるずると半ば引きずられるように歩いていった。階段まで来ると、さすがに純も諦めたのか、自分から先に階段を降りていった。
 飯田は出席番号が純の次で、席も純の後ろだったので一番初めに仲良くなった同級生で、一緒に帰るのは今回が初めてではなかった。彼の、前向きで明るいところが卓也に似ていると、純は密かに思っていた。
 下駄箱で飯田はふと思いだしたように、手を叩いてから言った。
「な、帰り寄り道してかないか?」
 純はそんな気分でもなかったがまあ別に用があるわけでもないと思い、
「いいよ」と言った。
 学校を出て、校門からしばらくは生徒ばかりしかいなかったのが、歩いて離れていくにつれ次第にその割合が少なくなっていき、駅前に到着する頃には自分たちを含めて数人しかいなくなっていた。容積と密度の関係と同じだ。純は、なぜか急にそんなことを思いついて生徒の姿を追っていたので、飯田が不審そうに訊ねた。
「お前さあ、何か挙動不審だぞ。
 やましいことでもあるのかよ」
「え、そう見える?
 いや、生徒の数を数えてただけだよ」
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 純がそう言うと、理由を知らない飯田は笑いだした。しかもツボにはまったらしく、しばらく笑い続けていた。
「そんなに笑わなくてもいいだろ」
 純は呆れて言った。
「ずっとそのままでいてくれ、な。
 お前はいいやつだな」
 飯田は笑いを抑えるのに苦労していたが、そのうち治まると、そう言って純の肩を叩いた。
「で、どこに行くわけ?
 まだ場所も聞いてないけどさ」
 もう駅の近くまで来てしまっているので、純は不安になって訊いた。どこに行こうとしているのだろうか。飯田は一瞬照れたようなしぐさをして、それから言った。
「うん、買い物。
 誕生日って、なにあげればいいんだ?
 なあ、選ぶの手伝ってくれよ」
 あまりにも意外な言葉が返ってきたので純は驚いたが、とても面白そうだと思った。地元の人かしら。少なくとも、同じ学校じゃないよな。
「しょうがないな。
 手伝ってやるか」
 純はおどけた調子でそう言った。もう図書室のことも、美紀のことも、頭の中から消えていた。いや、消えていたのではなく、興味の優先順位が入れ
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替わって、後回しにされただけだった。純は、女性への誕生日のプレゼントを選ぶということを経験するのは初めてのことだったので、どんな場所に行ってどんなふうに何を選べばいいのか、全く見当が付かなかった。そして、この一連の動作を知ることは自分にとって必ず有用なものであると確信していた。
 飯田は雑誌を取り出すと、
「ここ。この店に行こう」と言って店の外観と地図が載ったページを指差した。
 純が雑誌を奪い取って見ると、『プレゼントで差を付けろ。絶対失敗しない店ベスト二〇』という特集だった。純は不覚にも吹きだしてしまった。
「なに、これ」
 と訊くと飯田は恥ずかしそうに、
「だから、なに贈ればいいか分かんないんだって言ったろ。
 参考にするんだよ」
「でも高くない?
 予算は幾らなの」
 純は多少不安だったので念のため訊いてみた。雑誌の特集に組まれているものは、最低でも二万円、ほとんどが五万円以上もする、高価なものばかりだった。相当前もって計画されていない限り、彼らの持ちうる金額とは思えない。しかし、飯田は余裕の表情で純の不安を振り払った。
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「ああ、いいのいいの。
 大体、こういうのって高いのばかり載せるんだよ。だから、似たようなので安いのを探すんだ」
「そんなもんなの」
 純は呆気に取られてしまった。雑誌の情報をまともに受け取ってしまった自分がなんだかばからしくなってしまい、それ以上考えたくなくなった。そして、以前卓也に、世間に流されすぎると注意されたことを思いだして苦笑した。変わりたいと思ってみても、結局自分は変わっていないのだということを痛感した。
 雑誌の店はすぐに見つかった。店内はとても清潔な感じで、高級感がただよっていた。純は並んでいたスカートの値段を見て驚いた。それを飯田に見せようと思って飯田を探すと、奥で腕時計を見ていた。腕時計の後ろの棚には大小様々なバッグが並んでいて、そのどれもが高そうに見えた。
「何か、僕たちの来るとこじゃないね」
「ん、そんな感じ。
 これ見ろよ。こんなちっこい時計が七万だって。異常だろ、これ。笑っちゃうな」
 二人は顔を見合わせて笑った。そして、そのまま店を出ると来た道を戻るようにして歩きだした。
「別世界だったな」
 飯田はそう言うと、何だか申し訳なさそうに頭を掻いた。
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「ちょっと面白かったけどね。
 でもさ、どうすんの?何が欲しいか聞いてから出直したほうがいいんじゃないの」
「それはムリ。だって、まだ知らないんだよ、プレゼントのこと。まあ、こうなったらいろいろ見て回ろうぜ。な」
 飯田は交差点の角にあるマルイを指差してそう言った。全部見て回るのだろうか、と思うと純は目眩がした。
 二人はまず、入口正面のアクセサリを眺めることにして、ショーケースのそばであれこれ言い合っていると店員が近寄ってきた。
「なに、彼女へプレゼント?」
 と気さくな感じで女性の店員が声をかけてきた。二十歳くらいのとてもかわいらしい笑顔をして、胸元の開いたシャツとミニスカートにブーツ、髪の色は茶色というか金色に近い色で指輪もいっぱい付けていた。
「まだ彼女じゃないんだよね。
 指輪だと重いからピアスかブレスにしようと思うんだけど。うーん、やっぱピアスかなぁ、最近人気なのはどういうの?」
 飯田は助け舟とばかりにそこまで一気にしゃべって、相手のアドバイスを待った。
「そうねぇ、」と言って店員はピアスをいくつか並べて見せて、
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「この辺がけっこうカワイイよ。
 ほら、これなんかいいと思うけど」
 と言って手にとって見せた。そして、ここで気が付いたのか「高校生だよね」と訊ねたのか独り言なのか分かりにくい言い方をして、それから、
「ピアス開けてる?
 開けてなかったらこっち」
と言いながら今度は違うピアスをいくつか取り出して並べた。
「あ、こっちは耳に挟むやつか」
 と飯田は思ったことがつい口に出てしまったという感じで言うと、
「うん、開けてないかも。
 こっちのがいいかな」
 すると店員はさっきのピアスを端に押しのけてさらにいくつか取り出して並べた。
「この辺がいいと思うよ。手頃だし。
 あんまり高いと引いちゃうかもね。付き合ってから高いのプレゼントしたら?」
 飯田はその一言で決めたようだった。店員の持っていた二つのピアスのうち、一つを指差して、
「じゃあ、それください」と言った。
「リボン付ける?」
 飯田が頷くと、店員はプレゼント用に包装してくれて、これはおまけ、と言ってあめ玉を二つくれた。
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「また来てね」と言いながらピアスを手渡されて、飯田はうれしそうに微笑んでいた。純は、その二人のやり取りをずっと隣で見て、聞いて、そして感心していた。とにかく、早い段階で買い物を終えることができてほっとしていた。
 二人はそのまま外に出てまた歩きだした。目の前の交差点で信号待ちをしていると、飯田が座りたいと言いだしたので、交差点を渡った先にあるカフェに入ることにした。
「オレのおごりでいいよ」
 と飯田は言って、純の分まで一緒に支払うと、席に着いた。
「サンキュ。
 でも、悪いな。全然力になれなくて」
 飯田は首を振った。
「そんなことないって。ほんと助かったよ。
 一人だったら、多分買ってないし。オレさ、こう見えても結構苦手なんだよね。買い物って。特に、他人のものを自分で選んで買うなんてさ。初体験だよ」
 初体験、という部分をやけにいやらしく発音して、意図的に性行為を連想させたいのだろうと純に思わせた。
「でさ。もういいだろ。
 誰の誕生日なの?」
 純はずっと気になっていたそのことを訊ねた。飯
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田はカプチーノの泡をスプーンですくって遊んでいたが、やがて口を開いた。
「バイト先のエリちゃん」
 ああ、と純は納得した。一度、見たことがあった。顔立ちは目立たないが人当たりがよくて、とても愛嬌があった。飯田の話にも何度となく登場しているので、どういう人なのかはよく知っていた。
「あの娘、人気ありそうじゃない?
 何か、接客が天職って感じだよね、愛嬌あるし」
 純がエリちゃんを褒めると、飯田は自分のことのように照れ笑いをした。その様子がまさに今の自分と重なって見え、純はうまくいって欲しいと思った。
 一旦口に出してしまうと、もうどうでもよくなってしまうのか、飯田はエリちゃんのことをしゃべり続けた。彼女のどこに惹かれたのだとか、あのときの行動は絶対にオレに気があるからだ、とか、聞いていて可笑しくなるところもあるのだけれど、それだけ真剣に好きなんだということは分かった。
「あのさ、高校って不思議なとこだね。
 今までは学校が生活の全てだったのに。なんか、学校の存在が薄くない?」
 会話が途絶えたところで、純はぽつりと言った。
 高校生になり、日常の行動範囲が広がったことが純には不思議でならなかった。空いた時間に働いて金を稼ぐこともできるし、制服のまま遊びにも行け
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る。中学生の頃は、他の学校の生徒と触れ合うこともなかったし社会人との出会いなど全くといっていいほどなかった。それが、今は他の学校の生徒とも会えるしバイトをすれば社会人とも出会える。世界はどんどん広くなっていき、純はそのことがとても不思議でならなかった。
「オトナになったってことだろ、それは。
 だって、女はもう結婚できるんだぜ。十六って、オトナなんだよ」
 結婚。純はその言葉に驚いてしまった。まさか自分たちの会話の中に、そんな言葉が出てくるなんて思いもしなかった。
「びっくりだよ。そっか、そうだよ。結婚できるんだ、もう。すごいなあ」
 純は少し興奮気味にそう言うと残りの珈琲を飲み干した。
 
 それから数日が経ち、月曜日の朝に純は飯田と一緒に登校した。電車を降りたときに見かけて声をかけたのだ。飯田の顔がとてもうれしそうだったので、純はうまくいったんだな、と思った。
「おはよ、うまくいったよ」
 開口一番、飯田はそう言ってうれしそうに笑っていた。
「おめでと、よかったじゃん」
 純は自分のことのようにうれしかった。
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「でさ。今度の日曜にバイト休んでデートするんだ。もううれしくって」
 飯田は泣く真似をした。
「ああ、そうそう。お前にはほんと、感謝してるよ。今度、エリちゃんに誰か紹介してもらうからな。期待しとけ」
 そう言って飯田は純の背中を叩いた。しかし、純はあまりうれしそうではなかった。申し出自体はうれしいことだが、美紀のことが気になっているのに他の人とそういうふうに会うということに、抵抗を感じていた。
「それはありがたいけど、別にいいよ。それより、デートは行き先決まったの?」
「それなんだよ。
 最初、ディズニーランドにしようかと思ったんだけどさ。最初のデートであそこに行くと別れるって言うだろ。だから映画にしようかと思って。でも何見たらいいんだろ。恋愛ものがいいのかな。ていうか、今何やってるんだ?映画なんて分からねえよ、なんか知ってるか?」
 そんなことを言われても、興味も無いし知っているわけもないので、
「知らない」と即答した。
 飯田は大きくため息をついた。
「変なんだよ。
 付き合う前は、ただ一緒にいればいいって思って
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たはずなんだよな。でも、こうやっていざうまくいくだろ。すると、突然不安になるんだ。デートで失敗して嫌われたらどうしよう、とか、毎日電話してしつこいと思われたらどうしよう、とか。
 なんでかなあ。なんでだろ」
 純は飯田が真剣に悩んでいる様子に、親しみを覚えた。そして、なんだかとても勇気付けられたような気がした。自分も、何とかうまくいくのかもしれない、そう思うと純はうれしかった。
 しかし、本当に純が知りたかったのは飯田が一体どんな状況で、どんな言葉をかけたのか、その一連の流れ、つまりマニュアルとしての流れが知りたかったのだが、さすがにそれは聞けなかった。それはまさに、今自分がそういう状況にあって、アドバイスをしてほしい、と言っていることに他ならないからだ。
「考えすぎだよ」
 純は、飯田がそういうようなことを言って欲しいのだろうと思ってそう言った。
「逆の立場になって考えてみなよ。
 もし、エリちゃんが何か変なことしたら、どう思う?」
「かわいい」と、飯田は照れながら言った。
「えー、でも、男と女は違うぜ。女の子はちょっととぼけてたほうがかわいいって思うけどさ。男は違うよ。頼りないって思われるだけだぞ」
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 そう言いながらも少し気分が良くなったのか、飯田に笑顔が戻っていた。
 
 放課後になって、純は飯田につかまる前に教室を出た。今日は図書室に行きたかった。廊下に出たところで、後ろから美紀が呼んだので純はどきどきして立ち止まると、振り返った。彼女の姿が目に映ると、自然と顔がほころんでくるのが分かり、それを悟られないようにするのに苦労した。
「図書室行くの?」
 美紀は笑顔で訊ねた。
「うん、先週行けなかったから。
 返却しないと。青山さんも?」
 美紀は肯いた。
「今日は当番じゃないんだけど」と、前置きをしてから、
「英語教えてもらおうと思って。英文作らなきゃ」と言った。
「見てあげようか」
 純はとっさに言った。言ってからしまった、と思ったがもう遅かった。美紀は意外そうな顔をしていた。
「へえ、天野くんて英語得意なんだ」
「得意ってほどじゃないけど」
 純は照れ笑いをした。美紀のためになにかできると思うと、とてもうれしかった。
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 二人はそのまま図書室に向かうと、純は本の返却をするために貸出カウンターに向かった。美紀は同じ委員の仲間に挨拶をしながら、奥の机に向かった。返却が済んだ純も、その後に続いた。
 隣の机にも、生徒が集まって勉強していた。その中の一人は美紀と同じ図書委員で、ここでも二人は挨拶をした。
「お、珍しいね。今日は二人でお勉強か?」
「うん、さっき廊下で会って。
 英文作らなきゃいけないんだけど、手伝ってくれるっていうから」
 お互い静かにそう言うと、机に向かった。
 美紀は、ノートを広げて純に見せた。
「これ。途中までは分かるんだけど。
 なんか、おかしな訳になっちゃうの」
「ここ」と純はノートを見て、ほっとした。何とかなりそうだ。
「こんな感じでいいんじゃないの」
 純はノートに英文を書いていった。横から美紀は覗き込むようにその様子を眺めていて、普段絶対に見ることのないそのしぐさに純はどきどきした。
 中学生のとき、純は佐々木と何度か廊下ですれ違った。そんなとき、純は佐々木に対する後ろめたさから、彼女を見ないように、うつむいたり、目をそらしたりしていた。卓也が転校してから、卓也が最後に言った言葉を純は何度となく頭の中で反芻し
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て、頑張って何とかしようと思い、卒業間近のある日の放課後、廊下に立って彼女を待った。それは、とても思い切った行動だった。もうほとんどの生徒は帰路に着いていて、おそらく、学年で五人と残っていなかったはずだった。もういないかもしれない、純はふいにそんなことも考えたが、一応彼女のクラスまで見に行くことにして、廊下を歩いていた。そのとき、教室から出てきた佐々木の姿を見つけた。目が合った。彼女はうつむいて、そのまま歩いていってしまった。あのとき、なぜ佐々木はうつむいたのだろう。純は、なぜかそのときのことを思いだしていた。
 美紀の顔が、視界の端に収まっていた。ノートに英文を書きながら、純はなぜか佐々木のことを思いだして、考えていた。
 あのとき、彼女がうつむかなかったら、僕は告白していただろうか。笑顔で微笑んでくれていたら? 分からない。
 書き終えると、純は鉛筆を置いた。そしてノートを美紀に見せると様子を伺った。
「ありがとう」
 美紀はうれしそうだった。その笑顔を見ていると、佐々木のことも頭から離れていった。今、美紀が目の前にいて、笑っている。その事実だけで、純は胸がいっぱいになった。そして、不意に朝の飯田の言葉を思いだした。
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 不安。持つものと持たざるものの悩み。一体、どっちが幸せなんだろう、と純は頭を傾げた。
 ぬるま湯のような日常の中に、刺激を求めるとしたらもっとも手軽で普遍的なものが恋愛だ。だけど、恋愛は本当に人を幸せにするものなのだろうか。僕は、そうじゃない人間を、少なくとも一人、知ってる。卓也、君は本当に恋愛が必要悪だと思っているの?
 純は自分が分からなくなった。今自分が感じているものが恋愛感情だとして、それが卓也の言う通り悪なのかどうか、そしてなぜ卓也はそれを悪だと言うのか、その理解に苦しんだ。自分が今美紀に対して抱いているこの感情はすばらしいものだと思っているし、悪い影響など見受けられないと信じていた。
 ノートをじっと読んでいた美紀は、顔を上げると、
「ほんとに助かっちゃった。ありがとう」
 と言って微笑んだ。
「たいした事ないよ」と純は軽く謙遜してみて、それから、
「明日発表なの?」と訊ねた。
「うん、多分。もしかしたら違うかもしれないけど」
 そこで美紀はちょっとためらったが、続けた。
「あのね、変なこと聞くけど、天野くんってなんで
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そんなに読書家なの?」
「普通だよ」と言って純は笑った。
「普通じゃないよ」
 美紀はちょっと驚いたように、最後の『よ』を軽く伸ばして言った。
「だって、みんな読まないよ、ほんとに。
 雑誌とか漫画読むくらいだよ」
 純は笑った。
「本には変わりないよ」
 納得がいかないのか、美紀は首を傾げていた。純はただ『文字を読む』程度に変わりないと言ったのだが、美紀はそういうつもりで言ったのではなく、いわゆる文芸だとか思想といったような、本が好きでないと読めないようなもののことを言ったのだった。
「そうかなあ。
 だって、興味がないと読めないよ。大体、ニーチェを読む高校生なんて聞いたことない」
 ここでようやく、純は自分と美紀の言っていることの相違に気付いたのだが、逆に、そんなに珍しいことなのだろうか、と思った。
「それは変だよ。だって、それは好きなことをするってことで、まあ趣味だから。
 でさ、音楽が好きで街で歌ってる人もいるし、野球で甲子園に行く人もいて、水泳でオリンピックに行く人だっているよ。好きなことをしていたらもっ
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ともっと上に行きたいってみんな思うはずだからね。だから、僕の場合はいろんな本を読んでたらたまたまニーチェに出会ったというだけで、そんなにすごいことでもないし、価値観の違いっていうだけでみんなとたいして変わらないと思うんだけど」
「オレもそう思うよ」
 と、突然隣の机に向かっていた図書委員の一人が、口を挟んだ。
「でもさ、ここは図書室だから」
 そう言うと、口元に指を置いて静かにしろ、というそぶりを見せた。純と美紀は顔を見合わせた。そのあと、純は席を立つと本棚に向かった。その間も、ノートを見つめている美紀の横顔を思いだしていて、それから佐々木のことも思いだした。あの日、廊下ですれ違ったあと、彼女はどうしたんだろう、と想像することはあまり気分の良いことではなかった。
 それにしても、美紀がニーチェのことを話題に上げたのは、とても意外だった。なぜなら、ニーチェは最近授業中に読んでいて、しかも自分のものだからここで借りたものではない。それなのに、どうして知っているのか。このことが純には不思議でならなかった。
 その場で一息ついて、それから純は今まで自分が座っていた席を見た。正確には美紀を見たのだが、同じことだった。美紀は席を移動して、隣に混じっ
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ていたので、ちょっとがっかりしたものの、帰るにはいいタイミングだと思った。
 純は一度みんなで集まっている机の前に行き、
「じゃあね」と言って図書室を出て行った。
 念のため教室に戻ってみたが、予想通り飯田はもういなかった。生徒の誰もいない教室は、なぜかいつもの教室とは様子が違って見え、純は卓也と過ごした放課後を思いだしてしまった。
 もう何を話したのか忘れてしまうくらいになってしまったが、いつも決まって思いだすのは、夕陽で壁が紅くなっている様子や、一緒に絵を描いたことや床に座ったときに見たタイルの破片、そういうあまり意味のない物事ばかりが浮かんでくるのはなぜだろう、と純は思った。そして、それと並列して佐々木と廊下がまた浮かんできたので純は教室を出ると、帰路に着いた。
 見えるものと見たものは、その場では同じように感じられるが、時間が経ってくると記憶の上では、実は全く違うのではないかと純は考えた。見えるものは写っているもので、見たものは認識したものだ。でも、果たしてそれだけだろうか。
 純は、もうひとつ何かが足りないような気がしていたが、それがどんなものかは分からなかったので、そこで考えることをやめた。
 
 六月に入ると、飯田は夏のことばかり考え始め、
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どうやら自分とエリちゃんの二人では旅行に行けないので純に誰かを紹介して四人で行きたがっている様子で、そのきっかけを作るために、ことあるごとに一緒に遊びに行こうと言っていた。あまりにも強引なので純はほとほと迷惑していたが、一度くらいは行ってみてもいいかな、と思い始めていた。
 陽射しはもう夏に近かった。純と飯田は、前に一度駅で会ってから、同じ電車に乗っているということが分かったので、一緒に通学していた。
「じゃ、今度の日曜日は絶対空けとけ。
 大体、こんないい話ないぞ、せっかく紹介してやるって言ってるのに。おまえ、ほんと変わってるな」
「分かったよ」と純はめんどくさそうに言った。
「こんな回りくどいことしないで、二人で行けばいいんだよ。言い訳なんかいくらでも出来るんじゃないの」
 飯田はちょっと大げさに手を振ると、
「あほ。
 それが出来ないからこうして頼んでるんじゃないか。でも、何が気に入らないんだよ。おまえなんか、こうでもしないと彼女できないぞ、本ばっか読んでないでさ。あ、もしかしてフランス文庫か?」
「なに言ってんだよ」
 純はむっとして言った。
「冗談だよ。でも真面目な話、おまえも彼女ができ
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たらなあ。エリちゃんの友達じゃなくてもさ。
 おまえさあ。青山と付き合ってみたら?」
 突然の飯田の言葉に、純は真紅になってしまった。飯田は気付いているのだろうか、と思うと恥ずかしくなった。純がそんな反応を見せてしまったので、飯田はそんなことを言っておきながら驚いた様子で、
「え、マジですか」と言って絶句した。
 二人は無言のまま、しばらく歩いていたが飯田は純の肩を叩いて言った。
「そっかそっか、だから図書室通いをしてたわけだ。ご苦労様。
 喜べ。向こうも好きみたいだぞ」
「うそ」と純は驚いた。
「ほんとだよ。女子が話してるの聞いたんだよ、オレ。まあ、ほんとかどうかは分からないけど、美紀って天野君が好きなんじゃないの、っていう言いかたしてたぞ。
 だいたい、いつも図書室で話してるんだろ。少なくとも好意がないとそうはしないと思うぞ」
 飯田の言葉を完全に信用することはできなかったが、それでも純はうれしかった。うわさがあるということは、多少は望みがあると考えられるからだ。しかし、これまでの美紀との出来事を思い返してみても、好意があるようには感じられなかったので、やっぱりそんなことはなく、気のせいなのではない
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だろうか、と邪推してみたりもした。
 結局、考えれば考えるほど、その答えはぐるぐる回ってしまって結論が出なかった。
 さらに悪いことに、変に美紀のことを意識してしまい、教室で美紀のことをまともに見ることができなくなってしまった。こんなことなら、聞かなければ良かった。純は少し後悔しはじめていた。純としては、別に美紀がどう思っているかということは問題でなく、今の関係が続いていればそれで良かった。単純に美紀の近くにいて、そして話をしているだけで充分だった。しかし、美紀の気持ちがもしかしたら自分に向いているのかもしれないと思うと、今までの関係では満足できないような、もう少し上の関係、つまり恋愛の対象として見てもらいたいという欲求が湧き上がってきていることに純は動揺していた。
 そんな様子だったので、午前中、純はずっと上の空で授業を受けていた。ノートには不思議な幾何学模様が並び、黒板の複写などする気にもならなかった。
 教科書を読んでいる先生の声が時折吹く初夏らしい風に乗り、耳を通り抜けていった。それは、また夏がやって来るんだという実感を含んでいて、飯田との約束を呼び覚ました。そして、あれからもう一年になるんだな、と思った。
 去年の八月、突然自分の前から消えてしまった卓
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也の存在を埋めるものが見つからないまま、一年が経とうとしていた。卓也の代わりになるものは、と思うと、純はどきどきした。美紀のことが浮かんできたのだった。しかし、そういうふうに何かの代わりにだとか、飯田のついでにだとかいうような、安易な気持ちで美紀の前には立ちたくないという決意が純のなかには存在していて、それは美紀への尊敬や純粋さに他ならなかったが、そういう厳格さが今の自分と美紀を遠ざけているような気がした。
 チョークの走る音と、鉛筆の音が響く中で突然既知感を覚えたので驚いた。この感じ、僕は知ってる、という頭の中の声までもが同じだったので純は怖くなった。
 運命、という言葉は嫌いだった。自分の人生があらかじめ決まっていて、ただその上をなぞっていくだけが人生だとしたら、それはとても味気ないものだと思っていた。ヘッセではないけれど、車輪の下に敷かれたレールに沿って歩く人生には何の魅力も感じない。
 しかし、純が今感じたこの既知感には、なにか、もう自分では抗うことのできない大きな力がこの世界には存在していて、今自分はここにいるべくしてここにいて、周りのみんなもそうなのだろう、と思わずにはいられないほどの効果があった。
 そう考えると、美紀とは出会うべくして出会ったということにもなり、その考え自体、純を勇気付け
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るには充分すぎるほどの効果があった。
 カミュ。それがほんの僅かな未来を必要とするなら、その未来のためにこそ、今、行動しなければならないわけだ。僕は僕のために、最後まで舞い踊ろう。悔いは残さない。
 昼休みになるのを待って、純は美紀を誘うことにした。突然のことに美紀はちょっと驚いていたが、すぐに普段の顔に戻った。
 純は外に出ようと言った。そういう積極的な様子を見たことがなかったので、美紀は新鮮な驚きを感じた。
「突然ごめん」
 そう言って純はちょっと照れ隠しのようなしぐさをした。
「ん、別に。どうかした?
 でも、図書室以外で話すの、珍しいね。なんか不思議」
 純は曖昧に頷くと、
「話があるんだ」と言った。
 その表情がいつもと違っていたので美紀は何も言えなかった。
 その僅かな沈黙の間にも二人は歩いていて、校舎脇の体育館との連絡通路に来ていた。純はそこで足を止めると、体育館の入口の階段に座った。
「話って?」
 座ると同時に美紀は訊ねた。
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「うん、何て言うかさ」
 と意表を突かれたのか、考えがまとまっていないのか、純はそう言ってから一瞬時間を置いて、続けた。
「いつも図書室で話してるでしょ、でも外でこうして話すことはなかったから。
 うーん、ちょっと本のないところで話したかったっていうのかな」
 美紀は頷きながら聞いていた。その様子を見る限り、迷惑ではなさそうだと思い、ほっとした。
「あ、さっき不思議なことがあったんだよ」
 純は先ほど感じた既知感のことを思いだして、話そうと思った。
「夢で見たのと同じことが起きたんだ。でも、夢を見たことはそのときまで忘れてて、何て言うか、夢と重なった瞬間に思いだしたんだよ。そのときに自分の思ってることまでがおんなじだったんだ。ちょっと感動だったよ」
 へぇ、と美紀は興味がないのか、それとも感心しているのかよく分からない返答をして、それから、
「不思議なこともあるんだね」と言った。
 そのあとで、何か思いついたのか突然純を見て言った。
「ちょっと待って、じゃあ、今こうしてることも、このあとどうなるかも知ってるってことなの?」
「それはないよ、一瞬だったから」
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 と言って純はそれを否定した。美紀は安心したらしく、笑顔になった。そして、
「ほんとに不思議」と、しみじみ言った。
「でもね。
 実を言うと、こういうことはあまり信じてないんだ。もしかしたら、偶然同じだっただけかもしれないし。だって、授業中の様子なんてそれほど変化ないから。それに、知ってるかも、って思った瞬間に、それに合わせて記憶を当てはめてしまっただけなんじゃないかとも思えるんだ。だって、もし知っていることだとして、じゃあ一体どこから見ていたんだろう。普通に考えると、もう一人僕がそこにいたってことになるよね。でも、その僕はどこにもいなかったし、どこからも見られている気配はなかった」
「なかった?」と美紀はその箇所に反応した。
「うん、見られているっていう感じはしなかったよ」
 純は不思議そうに繰り返した。美紀はくすっと悪戯っぽく笑った。そのしぐさがまたかわいいと、純は思った。
「見てたよ」
 美紀はそう言うと純を見つめた。
「え」と純は驚いて美紀を見るとそこで目が合ったので前を向いた。
「私の席からだと、何してるか丸見えだよ。本読ん
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でるのもね」
「見てたの」
 それでようやく純は理解した。だから知ってたんだ。
「じゃあ、え、ってことは」
 明らかに純は動揺していた。飯田の言っていたことは正しかったかもしれない、と思うと、冷静ではいられなかった。手が汗ばんできた。言葉を選ぼうとすればするほど、頭の中が真っ白になってくるのが分かる。気ばかりが焦ってしまい、言葉のあとのことしか思い描けない。心臓は緊張のあまり弾けそうだった。とにかく、言葉を出さなければ始まらない。純は口を開いた。
「あの」
 落ち着け、と純は自分に言い聞かせた。
「こ今度、一緒に、に日曜日に」
「いいよ」と美紀は即答した。
 まだ言ってないのに、と思ったがもうどうでも良かった。純はうれしそうに大げさな笑顔を作って、
「ほんと」と言って美紀を見つめた。もうそこには緊張や焦りはなかった。
 美紀は変わらない笑顔で、頷いた。
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