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- 第三章 -



      三

 行くべきか、行かぬべきか、それが問題だ。人生という不条理の螺旋階段には、一段毎に非常口があって、常にその選択に迫られる。何だよ、人生はなんてシンプルに出来てるんだ。神秘的だ、選択の自由なんて。自我と欲望と自己責任の幕の内。お、あの娘カワイイな。今こそ。よし、降りるぞ。
 電車はゆっくりと停車し、扉を開いた。降りて行く人ごみに混じって、卓也は電車を降りると、流れから外れて一息付いた。
 さて。降りたはいいがどうするかな。あの娘は乗ったな。ちぇ。ま、外に出てからにしよう、珈琲でも飲んで。っと、改札はどっちだ? あっちか。
 改札を抜けると、卓也は出口に向かった。通勤の人たちに逆らうように、逆の方向に歩いて行った。
 しまった。今日は音楽があった。やばいな。単位ギリギリだ。午後から行くかな。まあいいや、珈琲が先。大抵の問題は珈琲を飲んでいる間に解決するもんさ。おっ、いいな、これ。メモっとこ。とりあえず、時間を潰そう。本。ちぇっ、あと少しで終わりだった。一時間も持たないな。もう一冊必要だ。買うか? どうする。また選択肢が。
 卓也は財布を確認した。千円札が一枚見えたので、そのままポケットにしまうと歩きだした。不意に見た道路の向こう側に、喫茶店が見つかったの
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で、そこに向かった。店の中は音楽もなく、とても静かだった。客はいないらしく、店員がすぐに現れた。
 珈琲を頼むと、卓也は薄い鞄から文庫本を取り出して読み始めた。店内には、厨房からかすかに聞こえる話し声のほかは、何も聞こえなかった。どうやらこの時間はいつも暇なのだろう。珈琲が出されると、卓也は本を閉じた。
 静寂だ。珈琲もある。条件としては最高だっていうのに、読む気にならないな。由紀どうしてるかな。何も言ってないし。今からでも行くか。はて。どうする。詩を書こうかな。まてよ。選択肢は三つだ。すると、定義できないのか? いや違う。違うだろ。三つの選択肢には、優先順位があるんだ、その順位の上から順に選択するわけだ。つまり、常に二択。はっは。正しかった。さっすが。
 卓也は満足げに珈琲を飲むと、やっぱり学校に行こう、と思った。
 
 その後もぶらぶらしていたので、結局卓也が学校に着いたのは、もう昼近くだった。そこで、先に昼食をとって昼休みに到着することにした。階段を昇り、二階の自分の教室に向かう途中で後ろから背中を叩かれた。振り返ると、小柄の女生徒が親しげな顔で笑っていた。
「よ。
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 遅かったね」
 彼女はそう言うと卓也の腕を掴んだ。
「うん、サボる気だったんだけどな。気が変わった。
 由紀、昼は?」
「食べたよ。
 ひとりで、さみしーく」
 そう言うと、由紀と呼ばれた女生徒は卓也の腕を引いて足を止めた。
「急に止まるなよ」と卓也は由紀の腕を振り払った。しかし、またすぐに彼女は卓也の腕を掴むと、にっこり微笑んだ。
「ね、外いこ」
「あの、由紀子さん、オレは今学校に来たばかりなんですけど」
 由紀はそんなことはお構いなし、といった感じで、そのまま歩きだした。校舎に沿って植えられているイチョウはもうすっかり黄色い葉に着替えていて、時折はらはらと宙を舞っていた。二人はイチョウと並んで歩いていき、校舎脇の非常階段に腰かけた。
「今日は誰もいないね」
 由紀は辺りを見回して言った。晴れた日の校庭には、いつも生徒たちの姿が見えるのだが、今日は珍しく誰もいなかった。
「珍しいな。
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 で、まさかとは思うけど、もう帰るとか言うなよ。オレ、音楽やばいから。せめて、音楽だけは出てからにしてくれよ」
「今日は帰らないよ」
 彼女は二本の指で髪を挟んで、上目遣いに見ながらそう言った。卓也は彼女のそのしぐさにどきっとした。
 またここで選択肢が。どうする? 誰もいないぞ。行け。行け。いやしかし。口紅付けてるかしら。付いてたらあと残るぞ。あ、何かいい匂い。何だろう、甘い香り。行くか。いやだめだ。意気地なし。
「あ。枝毛。
 髪切ろっかな。ね、短いの似合う?」
「似合う似合う」
「テキトーだなあ」
 彼女は不満そうに言った。
 やっぱりシャンプーの匂いだ。いや、多分、きっと。夏の海で借りたのと同じ匂い。そうかそうか。納得。
「短くするって、どのくらい」
 うーん、と彼女は考えてから、
「こんなん」と、耳の下辺りを指で押さえて見せた。
「短いな」と端的に感想を漏らすと、卓也は確認するため、彼女の顔を近くから見たかったのでさりげ
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なく髪を触った。そして、
「ん、痛んでますねぇ」とおどけて見せた。
 ま、一ヶ月で色落として、また戻したんだからな。そりゃ痛むさ、普通。やっぱり付けてる、薄ピンク。却下。
「卓也ってさ。
 無計画だよね」
「何だよ、突然」
 卓也は心の内を見透かされたような気がして、動揺した。
「今日とか。
 昨日は何も言ってなかったのにさ。遅れるなら言ってくれれば良かったのに」
 無計画。卓也はそれを反芻した。オレの中のハムレットが起き上がったんだ。電車の中で。なんて、言えんな。人生の自由選択について考えてた、とでも言うか? まさか。
「昨日は、昨日。電車乗り過ごしちゃったからさ。何か、どうでもよくなった。
 由紀だってあるだろ、そういうの」
 ある、と言って彼女は笑った。
「いやだねえ、ゲージュツ家は」
 彼女はそう言うと卓也の頭をかき回した。
「喫茶店で詩を書こうと思ったんだ」
 卓也は頭を押さえて言った。そうすると彼女はぴたりと動きを止めて卓也をじっと見つめた。
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「なに? 私の?」
「いや、書いてない」
「何だ」と彼女はわざとがっかりしたような言い方をした。そして、何かを思いだしたかのように卓也の肩を叩くと、
「そうだ。お願いがあるの」と言った。
 その様子と口調から、あまりいいことではないと卓也は直感した。
「ね、詩を書いて。
 絵本の詩。あのね、ちょっと頼まれてて。
 どうかな? いいかな?」
「いいもなにも、もう決まってんだろ」
 断れないということが卓也には分かっているので、諦めて話を聞くことにした。
 絵本かよ。何なんだ、一体。でもチャンスかもな。って、誰だ? そんなこと頼むやつは。そんな友達、こいつにいたか? 信じられないな。
「じゃ、放課後。呼んでくるから待っててね。先に帰ったらダメだからね。いい?」
 そのとき、始業のチャイムが鳴り響いた。それで慌てて、卓也は立ち上がって由紀の手を掴み、立ち上がらせると、
「やばい、行くぞ」と行って走りだした。
 
 放課後、卓也は約束通り教室に残っていた。高校に入ってもう二年か、そういえばこうやって放課後
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に残るなんていうのは久しぶりだ、と不意に考えた。純か。なつかしいな。あいつとの時間が放課後の思い出だよ。今頃どうしてるんだ、あいつ。相変わらず勉強してるんだろうな。手紙から少しは変わったらしいって分かるけど。詩も書いてるみたいだしな。書いてるんだったら送ってこいよ、全く。
 
  川岸に横たわり
  月の明かりが美しく
  時にはおぼろげに光りながら
  おまえは何を考えているの?
 
 ちぇっ。純め。いい詩書きやがって。あいつ、ほんとに才能あるかも。悔しいけどな。認めてやろう。君はすごい。君はすごーいよ。ふふん。
 遠くからでも分かる、騒がしい由紀の声が聞こえてきた。分かりやすいやつだ。卓也は椅子に座りなおして、身構えた。
「おーい、卓也、お待たせ。
 先輩の瀬川さん」
「どーも」
 由紀は挨拶と紹介をまとめてしまったが、いつものことなので二人とも気にならない様子だった。瀬川と呼ばれた女生徒は、すらりとした背の高い、少し大人びた整った顔立ちの女性で、背中まで伸びた黒髪が美しく、その腕にはスケッチブックを抱えて
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いた。卓也は、まるで雑誌の中から飛び出してきたモデルのようだと思った。
 三人は、机を挟んで卓也と瀬川が向き合い、横に由紀が座った。
「いきなりだけど、本題ね」
 由紀はそう言って、瀬川を見た。瀬川はスケッチブックを開いて鉛筆で簡単に書いたイラストを見せた。それは五ページに渡って続いていた。
 繊細だな。絵本か、なるほど。これに詩をつけるわけだ。はいはい。そういうことか。
「これに合った詩を考えて欲しいんだけど。どう?」
「うん、それはいいんだけど、何で詩を入れようと思ったわけ?」
「卒業製作。美術の」
「へえ。そんなのがあるんだ。
 まあ、出来なくはないよ」
「ありがと、あとで何かお礼するから」
「私にもね」
「で、どんなのがいい?
 一応、希望だけ聞いとく。なるべく好みに合わせるけど?」
 瀬川は首を振った。
「おまかせ」
「オッケー、わかりました。明日までに書いとくことにするよ」
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「ヨロシク」
 明日の放課後に渡すということで、その場は別れることにして、瀬川は教室から出て行った。由紀は廊下まで見送りに行ったが、すぐに戻ってきた。瀬川が見えなくなると、卓也はスケッチブックを開いて眺めた。
 絵本ねえ。オレも来年つくるのか。ふうん、細かい絵だな。建物。歩く人ごみ。一体、どういう繋がりがあるんだ? ああそうか、それを考えるのはオレだったな。でもどういう関係なんだ、あの二人。部活もやってないのになんで先輩と知り合いなんだ? 変だな。こっちは海か? 泳いでるのか。
「考えてるかあ、卓也」
 由紀が戻ってきて卓也の背中にかぶさるように腕を回して言った。
「ん、何かつながらない絵だと思ってさ」
「私がテキトーに描いたからね」
「はあ?」卓也は本気で驚いた。
「えっ、由紀が描いたの、これ。
 ていうか、それじゃ何、あの先輩は何もしてないってこと?」
「受験生は忙しいのだ」
 君が言う事ではないよ。何考えてるんだ、いったい。絶対やってやる。
「それにしても、よくもまあ辻褄の合わない絵を描いてくれたよ。もっと、こう、物語を考えやすい絵
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を並べてくれれば楽なのに」
「そしたら、私が全部出来ちゃうでしょ」
「確かに」
 卓也はもう一度全てのページに目を通した。すると、不思議なことに気が付いた。
「この景色、なんか東京っぽいな」
「あれー。よく分かったね。
 でもね、本物じゃないの。行ったことないから」
 由紀は少し機嫌が良くなったのか、そう言うと卓也の肩に頭をのせた。
 へえ、行ったことないのか。いい口実ができたな。ついでに純とも会えるかな? いや、何をいまさら。そんな時間ありませんて。
「じゃ、帰りますか」
 スケッチブックを鞄にしまうと、卓也は机を押して立ち上がった。
 
 帰宅して、夜になっても卓也はスケッチブックを眺めていた。こんな絵描くんだな。知らなかった。偶然ではないということなのか、これは? まさか。いや、過去の偶然は現在のオレから遡ってみると、それは必然だ。
 卓也はスケッチブックを閉じると、ルーズリーフを一枚取り出して詩を書いた。
 
  ここから逃げ出したい
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   走り続けて
  ここから消えてしまいたい
   あの壁を越えて
 
  裕福な笑顔の後ろには
  欲望が渦巻いている
  神の神聖な雨は人々を洗い流す
  それと同時にイチジクの木も育てる
 
  いくつもの壁を越えてきた
  街を越えて 川を渡り
  不毛の大地にたどり着いた
  僕の求めるものはここにもなかった
 
  風に乗って埃が舞う
  僕は約束の地に立ちすくむ
   神は存在しない
  それは永遠に続く時間の響き
 
 そこまで一気に書き上げると、鉛筆を置き、読み返してみた。
 ふむ。いいんじゃないの。神が育てしイチジクの木。風刺だな、こりゃ。まあ、この海は川ってことにしてもらおう。って、五ページだったよ。四行が四段か、どこに足そう? 神。光あれ、だ。ナッシュの詩。
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  光が空から落ちてくる
 
 違ったか? そんな感じだった。光は透明なものの現実態であり闇の中には可能態として存在するって偉いギリシア人は言った。それは人間の視覚中心主義だよ。本質を捉えてない。まあいいや。一ページは白紙。行間をよく読みまくれ。よし。でもなんか、前向きな詩じゃないね。逃げ出したい、だって。まあいいか、分からんだろ。
 卓也はもう一度スケッチブックを開いてみた。そして、今書いた詩をそれぞれのページに当てはめて、それでもう一度繰り返して読んでみた。
 なんてこった。こりゃ、絵本じゃないね。はっは。おまかせって言ったしなあ。いいだろ、別に。完了。お疲れ。
 
 翌日、瀬川に見せる前に確認したいからと、由紀が詩を読みたいと言いだした。卓也にとって、それは予想通りだったし、元々そのつもりだったので二つ返事でスケッチブックとルーズリーフを手渡した。
 他人の評価を待つのって、いやなもんだな。もっと楽しそうな顔して読めよ、全く。そういや、先輩との関係を聞いてなかったな。聞いてみるか。
「なーんか」
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 由紀は感想をうまくまとめられないのか、二度、三度と読み返して、それから口を開いた。
「もっとさあ、こう、前向きなのがいいんじゃない? 卒業制作だよ。逃げてどうすんの」
「やっぱ? そう思ったんだけどね」
「じゃ、直せばいいのに。
 このヘボ詩人がぁ」
 由紀は笑って言った。
「でも、いいんじゃない、別に。そんなに悪くないと思うよ、うん。だからって、良くはないけど」
「安心したよ。
 何ていっても、合作だからな」
「そうだね。合作だ」
 由紀はうれしそうに言った。
 よし、評価点も上がったことだしいいことずくめだな、この仕事。卓也は由紀からスケッチブックと詩を取り上げると、鞄にしまった。
「ちょっと聞きたいんだけどさ」と卓也は突然切り出した。
「あの先輩と、どういう関係なわけ?」
「あー。瀬川さん。
 なになに、気になってんの? あのね、中学の先輩なんだよね。家も近いし、この学校に入るって決まったときにね、いろいろ教えてもらったりしてたんだよ」
「はー。そういうことか」
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 由紀は瀬川を呼びに行くと言って教室を出て行った。
 帰っていく生徒たち。オレは帰れない。まだひと仕事残ってるから。ヘボ詩人だと。お礼って何かしら。私にも。じゃ、三人でお楽しみ。まじかよ。お、トンボ。あっちの山から来てるのかな? えーっと、何山っていったかな。前に純の手紙に書いたんだけどな。忘れちった。うーん。まあいいや。
 卓也は窓を開けて外に顔を出した。トンボが飛んでいった先を見ると、夕陽が山と重なり、校舎を紅く染めていた。
 すてきだ、美しい夕陽。オレのこころを代弁してくれ、谷川俊太郎。
 
  陽のために
  空のために
  私は牧歌をうたいたい
 
 なんてこった。さすがだぜ、俊ちゃん。斜陽は郷愁を運んでくる。不思議だ。郷愁か。オレの故郷は、どこになるんだろうな。故郷を懐かしむのも、過去を回想するのも、同じだ。過去からは未来を創れない。滅びの美学なんだろうか。それは太宰の斜陽だよ。スウプ。お母様、スウプをおこぼしになってるわ。失礼な。これはよだれですよ。まあひどい。
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 ふう。まだ秋だねぇ、トンボ君。まあなんてふしだらなトンボだよ、全く。人前でそんなこと。おっ、来たな。
 足音と話し声が聞こえたので振り返ってみると、ちょうど二人が教室に入ってきたところだった。昨日とは違い親しげに手を振りながら瀬川は歩いてきた。
「出来たって?」
 教室に入ってくるなり、瀬川は笑顔で訊ねた。卓也は大きく頷いた。
「昨日言ったでしょう、明日までに書くってさ。約束は守るよ」
「さすがだね。
 ね、見せてよ」
 卓也は一瞬由紀と目配せをして、それから瀬川に渡した。彼女は笑顔で受け取ると、そのまま読み始めた。教室はしんとしていた。卓也は、どきどきしながら彼女の目線を追っていた。
 真剣な眼差し。その先には、オレの言葉があるんだ。長くてサラサラできれいな髪、由紀とは大違い。やっぱりオトナだなあ、彼氏いるのかな。いそうだなー。でも今はオレが独り占め。詩人、詩人、詩人。なんて甘美な響きだ。姉さん。僕は貴族です。
「んー。いいんじゃないの」
 瀬川はそう言って何度も頷いた。
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「よかったね」と言って由紀は微笑んだ。
「じゃ、どっか寄って帰ろうよ。
 お礼におごるから」
「別にいいよ」
 と卓也は苦笑して言った。そうだよな。それくらいだよな。考えすぎ。
「何言ってんの。
 せっかくおごってくれるって言ってるのにさ。あたしは行くからね。卓也も来なさい」
「お、尻に敷かれてるね、卓也くん」
 瀬川は笑いながら言った。
「そんなことないって。
 悪いけど、今日は用事があるんだ」
「そっか。じゃ、二人で行こっか。
 鞄取って来るから、ちょっと待っててね」
 そう言って瀬川は教室を出て行った。
「用事なんてないくせに」と言って由紀は卓也の頬をつついた。
「人を暇人みたいに言うなよ。
 今日は親と会うんだよ」
「あ、お父さん。今日だっけ?
 そっか、ごめん、変なこと聞いて」
 由紀はばつが悪そうに言った。
「気にするなよ。じゃ、お先」と言って卓也は教室を出ていった。
 さっきまで見えていた夕陽は、もうほとんど山の
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中に潜ってしまっていた。薄暗くなり始めた道を歩き、卓也はひとりで駅に向かった。
 陽光は一度死んで、また明日には生まれ変わって新しく輝く。死を経験していくわけだ。死とは何だ? オレは産まれることも死ぬことも一度しか経験できない。オレだけじゃない。由紀も瀬川も、イチョウもトンボも魚も、みんなみんなそうだ。ああ、仏教のやつらは違ったな。あいつらは、生まれ変わるんだ。くだらない。ニセ仏教徒の日本人共が生まれ変われるわけなかろ。あそこの住職さん、グルメなんですって。まあすばらしい。あいつら、何食べようってんだろ。またあの喫茶店かしら。あのばかでかいパフェでも食うのか。気持ち悪くなるぞ、あの大きさ。年上っていいなあ。何かいい方法ないかなぁ。運命的な再会が理性を狂わせるのだ。
 
  落ちぬなら
  落としてみせよう
  ほととぎす
 
 がんばれ、オレ。作戦会議だ。お、いいタイミング。準急で帰れるぞ。
 卓也はホームに電車が来るのを確認すると、走って階段を降り、そのまま乗り込んだ。
 腹減ったな。義務。あの人はもう他人なんだし。何で食事なんて。養育費の条件だから。オレ達が信
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用できないからちゃんと学校に行ってるか自分で確認したいんだ、あの人は。学校行ってないなら金出さなくてもいいもんな。会ってまた同じ話をするんだ。最近どうだ、うんまあまあ。真実は闇夜の中に。人生って騙し合いなのかしらん。まあそうだろうな。少なくとも、あいつらは夫婦を演じていた。オレがいたから? じゃ、オレってなんなんだろ。やめた。ばかばかしい、何でこんなこと考えなきゃいけない? あんなやつのために。
 
  ああ神様、ああ神様、
  どうかこの男をおあわれみ下さい
 
 計算だけでは生きていけないよ。それを、分からせてやる。負けるもんか。
 やがて電車はゆっくりと停車した。卓也はだるそうに電車を降りると、父と待ち合わせをしている場所に向かった。もうすっかり外は暗くなっていて、街灯が灯っていた。卓也は、駅前の商店街を抜けて裏通りの中華料理店に入っていった。
「卓也、ここ」
 店のドアを開けると、父がすぐに卓也を見つけ、手を挙げた。
「悪いな、いつも急で」
「いいよ、別に」
「で、あれだ、その……どうだ、最近?」
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「ん、まあまあかな」
 やっぱりお決まりだ。他に言うことないのかよ。
「そうか、良かったな。
 で、彼女できたんだって?」
 父はそう言うとにやっと笑った。
「はあ、もう知ってんだ。
 母さんから聞いたの、それ。そんなことまで言わなくていいのにな」
「母さんはうれしそうに言ってたよ」と言って、父は煙草に火を点けた。
「ちっちゃくてかわいい娘なのよ、なんて言ってな。いつもは何訊いても無愛想なくせに。
 で、かわいいのか?」
「どうだろ。
 毎日見てるから、見慣れたってのもあるし。平均点じゃないかな」
「ってことはかわいいんだな、見た目に関しては文句ないんだろ、そうじゃないとそんな風に言えないさ。
 慣れてくるとなぜか悪いところが見えちゃってな」
「それが離婚の原因?」
「ばか」と言って彼は笑った。
「いろいろあるんだよ、でも、お前には悪いと思ってるよ。学校まで転校させてしまって。負担ばかりかけて……」
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「もういいよ」と卓也はうんざりした口調で言った。聞き飽きたセリフ。
「あのさ、もういいんだよ。
 オレ、ちゃんと学校行ってるし。わざわざこんな田舎まで来なくていいよ。どういうつもりか分からないけどさ。再婚したんだろ。もうオレ達のことはいいよ。無理してこういうことされてもうれしくないから」
 父は何度も頷いていた。卓也には、その表情が、うれしいのか、悲しいのかよく分からなかった。
 あ、ちょっと言い過ぎたのかも。そんな雰囲気。まあいいや、済んだことだし。
「もし、お前が迷惑だって言うなら」と彼は重そうに口を開いた。
「もう来るのは止めるよ。電話もしない。でも、たまには連絡する。それくらいはいいだろ、一応これでも父親なんだから。それに、オレの家庭のことまで考えなくていい。オレは、お前に会いたいんだよ。それはほんとだよ」
「好きにしてよ。ごめん、言い過ぎた」
「別にいいよ、悪いのはオレだ」
 何となく気まずくなってしまい、二人とも口を噤んでしまった。卓也はもくもくと食事を済ませると、トイレ、と言って席を立った。
 どうしようかな。もう帰りたいよ。でもなあ、わざわざ来てんのに。新しい家族の目もあるだろうに
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さ。そう考えると悪いな。もう少し、何とか。それしかないだろ。あーあ、今日は最悪だよな。吐き気のするパフェか、気まずい食事。究極の二択だよ、全く。どっちでも良かったな、これじゃ。もうひとつ。トンボ捕りにおじいさんと裏山へ。今日の夕陽は美しかった。郷愁か、やっぱりオレの故郷はここだ。ここがオレの約束の地。
 
  その日の夕焼が私を生かす
 
 すばらしい。まさに、感性の遊牧だよ。離婚万歳。私、今幸福よ。
 卓也はゆっくりと席に戻った。父は食事を終え、煙草を吸っていた。
「珈琲頼んどいたぞ」
「あ、サンキュ。
 煙草控えたほうがいいよ、何本吸ってんの」
 父は肩をすくめ、まだ半分残っている煙草をもみ消した。
「母さんみたいだな。その言い方」
「あのさ。新しい相手って、どんな人なの」
「そんなこと知ってどうする。
 何か言われたのか、訊いてこいって」
「まさか」と言って、卓也は両手を振って否定した。
「そうじゃないけど、気になるし。母さんは訊かな
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いよ、こんなこと。
 でもさ、まさか自分の親と女の話するとは思わなかったよ。考えられないね」
「そうか?
 別に変でもないだろ。男の考えることなんて、それくらいだ」
 そう言った彼の顔はいたずら好きな少年のようだった。
「で?」
「もう、止めろよ。この話は終わり」
 父は視線を落としてカップをもてあそんでいた。その様子は、とても痛々しく見えた。
 いいきっかけになったかな。そろそろ帰るか。まあ、言いたくないんだろうな、やはり。この人は一体、何をしに来てるんだろ。よく分からん。
「そろそろ帰ろっかな。
 じゃ、また今度」
「お、そうか。じゃ、またな」
 卓也は軽く手を振ると、そのまま出て行った。夜風がひんやりとして、気持ちよかった。卓也は湯気で曇ったガラス越しに、父の姿を追った。彼はまだその場所にいて、珈琲を飲んでいるようだった。
 温度差が気持ちいいな。何だろう、この気持ち。なんだか、もったいないような。白黒マーブルをまぜまぜしてる感じ。大切にしたい。なんか、詩が生まれそうな気分かも。川を見に行こう。あ、自転車
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あっちだ。
 卓也はそのまま駅のほうに戻って歩きだした。駅前のバス停に丁度バスが到着したばかりで、降りる人ごみに巻き込まれそうになったので道の端に避難して立っていると、聞き覚えのある声が聞こえた。
「卓也くん?
 偶然だね、今帰り?」
 そこには瀬川が立っていた。
 ほんとに起きたよ、偶然の出会い。まじで? これすごい、ほんとにすごい。
「あれ、何で。
 どうしてこんなとこにいるの?」
「あそこ」と言って彼女は近くのビルを指差した。
「そこの予備校だもん。
 これからいくとこ」
「あ、そうなの。へえ、何か意外だな」
「どうして? これでも一応、受験生なんだけどな」
「そうじゃなくて、何でここまで来てるのかってこと。
 もっと近いとこにあるんじゃないの。わざわざバスで来るなんて。大変でしょ」
 瀬川はくすっと笑うと否定した。
「ないんだよ、近くに。ここしか」
 なるほど、と言って卓也は後ろを振り返った。席は空いてるな。
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「まだ、時間ある?
 もしよかったら、どう? なんか飲む?」
「じゃ、私がおごるよ。
 お礼、してないもんね」
 瀬川は卓也の返事も待たず、一人で目の前のファーストフード店に入っていった。
 やった。やっぱり運命かも。でも、さすがに終わるまでは待てないぞ。どうする。このまま行くか? あの席にしよう。
 カウンターに向かって注文している瀬川を横目に、卓也は席を探してそこに座った。不意に由紀のことが頭に浮かんだが、すぐに消えた。恋愛って、騙し合いなのよね。
「おまたせ」と瀬川が席に着いた。
「ありがと。
 ほんと偶然、こんなとこで会うなんてさ。びっくりしたよ」
「そうだね」と言って瀬川は親しみのある笑顔を見せた。
 卓也は、始めて見たその表情にどきっとした。いけるぞ。
「今日はありがとね。絵本。
 助かっちゃった」
 瀬川はそう言うと不意に外を眺めた。
 あ、時間。気にしてるのかも。どうする。いや、攻めよう。ダメ元だしな。ほととぎす。
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「そんなに気にしなくていいよ。
 課題なんて出してりゃいいんだから。先生には分かんないって」
「そうかもね。
 あー。遅刻だ」
「休んじゃえば」と卓也はおどけて言った。
 瀬川は卓也を見ると、笑顔を見せた。
「自転車乗りたい。
 ね、後ろ乗せて」
「いいけど、オレの自転車乗りにくいよ。
 落ちても知らないよ」
「平気だよ」
 店を出ると、二人は歩いて駐輪場まで行き、卓也は後ろに瀬川を乗せて走り出した。後ろに人を乗せるのは久しぶりだったので、最初少しふらふらしたが、すぐに慣れた。瀬川は、時折独り言のように、風きもちいい、とか星がきれい、とか端的に何かを言っていたが、卓也は黙っていた。
「あのさ」と卓也は重い口を開いた。
「ウチ来る? すぐそこなんだ」
「いいよ」と、瀬川は即答した。まるで、始めからそのつもりだったかのような言い方だった。
「光ってさ。どれくらいの速さか知ってる?」
 突然彼女は大声で言った。
 なんだろ、突然。この人は展開が読めない人だな、面白い。天文学に興味あるのかしら。それとも
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物理かな。なんでもいいや。
「地球七周半」
 その卓也の答えに、瀬川は笑った。
「面白いね、卓也くん。
 確かにそうだ、アタリ」
「それが何なの?」
 意味が分からない卓也は彼女に訊ねた。彼女は、笑いが治まるのを待ってから静かに話した。
「星が好きだった人がいてね。
 でね。よく話すの、そういうこと」
「彼氏?」
「昔付き合ってた人。
 いっぱいいっぱい話聞いて、星見に行って。
 洗脳されちゃった感じかな。星のこと話すとき、すごく目がきれいなの。きらきらしてた。
 キミに会って、その人のこと思いだしちゃった。目が、そっくり」
「まだ好きなの、その人」
「まさか。だったら、こんなこと言わないよ」
「まあね。
 あ、ここ」
 と言うと、卓也はブレーキをかけた。自転車を置くと、そのまま玄関まで歩いていった。
「お邪魔します」と瀬川は卓也の後ろから小さく言った。
「誰もいないよ。仕事行ってる」
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「そうなんだ」
 瀬川は卓也に続いて部屋に入った。大きな本棚と、画材用具が無造作に詰め込まれた箱が見えた。
「これ全部読んだ?
 読書家だね、すごいすごい」
 瀬川は本棚の本を眺めて言った。
「読んでないのもあるよ」
 卓也はちょっと照れたように言うと、本を眺めている瀬川の後ろで、彼女の様子を見ていた。
 タイミングを待て。チャンスは必ずあるから。っていうか、何で来たんだ? そう思っていいのか、どうなんだ? 由紀のことだって知ってるのに。オンナって分かんなすぎ。
「いろんなの読むんだね。
 ね、お薦めは何かある?」
「お薦めねぇ。
 個人的にはシェイクスピアとか、カミュ。
 読みやすいのは芥川龍之介とか夏目漱石だね」
「ふーん。受験終わったら読んでみようかな。
 読書ってさ。不思議なんだよね。
 何て言うのかな。読後感? 最後まで読んで、ぱたん、」と彼女は拍手するみたいに小さく音を立てながら手を合わせてみせた。
「って閉じたときの感じ。あの瞬間が一番好きだな。そのために読むっていうのかな、一気にわーっと頭の中に物語の全部と、自分の思いとか、感情と
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か、ぐるぐるって混じり合っていくの。うまく説明できないけど」
「分かるよ」と卓也は頷いた。
「読書は精神の深いところを刺激するんだよ、論理的に解釈していくでしょ。文字を映像に変換するんだよ、頭の中で。その過程に、何ていうのかな、自分の経験とか見聞きしたものを再構築して作っていくでしょ。でも、漫画とか映画って、その情景や人物がすでにあって、それを流していくだけ。受身なんだよね。だから、すごく楽だし、受け入れやすい。でも頭を使わないから思考力とか想像力とかはなくなっていくと思う。
 それに、文字の情報量って、実はすごいんだ。もっと本読まないとダメだよ、みんな」
「いろいろ考えてんだ、卓也くん。
 なんかさー。年下って気がしないよ。変な人だよね、キミは」
「それって褒めてんの?」
「どうかな」と彼女はおどけてみせた。
 そして辺りを見回して、ベッドに腰掛けた。
「私ももっと考えないとダメだね。
 目的とかないし。なんで大学行くんだろ、とか思ったりするし。どうして同じじゃないといけないんだろ。
 いいのかな、こんなんで。普通に大学行って、就職して、結婚して。振り返ってみたら、どうなの。
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何かそこにあるの? きっとつまらない人生なんじゃないかって考えちゃう」
「やりたいことないの?
 さっき、光が何とか言ってたけどさ、そういうの好きなんでしょ」
「光の速度。物理なのかな。
 昔付き合ってた人の影響でね、宇宙とか星とか、そういうのは好きだな。
 化学で元素表っていうやつ覚えたでしょう。元素って、星が作るんだよ。軽いものから順に作られていくのね。まず中心で水素が核融合してヘリウムが出来て、水素がなくなるとヘリウムを使って、っていう感じ。でも、そうやってくうちに温度はどんどん上がってくし、自分の重力で小さくなってくの。で、最後には爆発しちゃうんだけど、そのときのエネルギーでさらに重たい原子が生まれて、宇宙に飛んでくってわけ。
 ね。私たちは、星から生まれたんだよ。そう考えると、不思議」
「詩人だね」と言って卓也は隣に座った。
「天文学をやってみたらいいんじゃない? そんなに詳しいんだったらさ」
「ちがうよ」と彼女は首を振った。
「教えてもらったの。彼に。
 だから、ちょっと間違えてるかも知れないんだ、これ。
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 私は、星を見るのが好きなだけ。そこに意味を見つけたり、たとえば宇宙はいつ生まれたとか、宇宙人はいるのかだとか、そういう議論はどうでもいいの。私にとって、これは学問じゃない。好きなだけ」
「それでいいんだよ。だって、そういうもんでしょ、始めるきっかけなんて何でもいいんだから」
 多分、みんなそうなんだろうな。はたして本当にそれが自分にとって大切なものであるのか、確信がもてないんだ。そして不安なんだ、そのことにこの先の自分の道を限定してしまうのが。でも、生きている限り何度でもやり直せるはずなんだ、生きてさえいれば。
 返事がないので瀬川を見ると、目が合った。彼女はじっと卓也を見ていた。その潤んだ瞳がいとおしいと、卓也は思った。そして顔を近づけると、彼女は静かに目を閉じた。
 
 人間の感情はよく分からない。きっと、オレの中に彼の存在を重ねてるんだろうな。じゃ、やっぱりまだ好きなんだ。いや、好きっていうか、もっと上の、昇華した存在なのかもしれない。自分の人生に影響を与えてしまう人。
 
  おお愛よ、おお愛よ!
  あの山にかかっている
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  朝の雲のように、
  黄金なすその美しさよ!
 
 そりゃすごいよ、確かにすごい。それは忘れろっていうほうが無理な話で。あ、もうバスないんじゃないか? 大丈夫なのかな。一応言っといたほうがいいな。はあ、めんどくさい。
「何考えてるの?」
 そう言うと彼女は悪戯っぽく笑った。
 そうだった。そっちのほうがやばいんだった。バスとか言ってる場合じゃないぞ、これは。若気の至り。言い訳にもならないな、こりゃ。ま、言い訳するつもりもないけどな。
「あー。
 あのさ、帰りはどうする? バスあるの、この時間。送ってこうか?」
「いい。駅まで迎えに来てもらうから。
 よくあるんだ、迎えに来てもらうこと」
「あ、そうなの。
 どうする? もう行く?」
「うーん、もう少し」と言って彼女は目を閉じた。
 
 静まりかえった闇夜の中、卓也は瀬川を乗せて自転車を走らせて、駅に向かった。駅前にはすでに人通りもなく、しんとしていた。
「ちょっと待ってて」
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 瀬川は電話ボックスに入ると、家に電話をかけた。卓也は自転車に乗ったまま、その様子を眺めていた。彼女の後ろ姿を見ていると、その髪の柔らかさや、肌の温もりが蘇ってきた。卓也はつい今しがたの情景を振り返りながら、時折こちらを振り返る瀬川の様子をじっと見つめ、自然と微笑んでいた。
 選択肢。オレは選ばなければならない。いや、今はまだ無理だ、冷静じゃないから。既知と未知の二つを比較する場合、未知のものに魅力を感じるのは当然のことだ。だけどそれも一過性のもので、すぐに理解してしまう。ほんとはそこで初めて同じ対象として判断するべきなんだ、でも、そこまで時間をかけるのは無理だし。見えない部分を予測して決定しなければならない。さあどうする。
 やがて、瀬川は受話器を置くと電話ボックスから出てきて、
「おまたせ」と言って卓也のところに戻ってきた。
「どうだった?
 来てくれるって?」
「うん。
 遅いからきっとそうだろうと思って、電話待ってたんだって。まだ時間あるから、もう少しいてくれる?」
「いいよ」と言って卓也は自転車から降りると端に停めた。
「何かワクワクしない?
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 夜中にこんなとこにいてさ。ほら、普段の生活では絶対にいるはずのないところにいて、だけど昼間のここは知ってる。半日違うだけだよ? でも何だろ、この違い。夜の闇っていうのは、人間の表面の部分、ほら、こうでなきゃいけない、っていう半ば自分自身を演じてる自分、ていうのかな、そういうものを隠してくれるんじゃないかって思うんだよ。それか、場所が持つ属性としての社会性、っていうのかな、そういうものが昼間はあるけど、今の時間にはない。そういう調和のバランスが壊れた場所にいることに、ワクワクしてるのかも知れない」
「属性としての社会性ってどういうこと?」と瀬川は尋ねた。
「うん、たとえば、その空間にどういう人が、どういう状況で、存在するかってことだよ。
 いいかい? ここは駅前だ。駅前の雰囲気ってさ。それほどどこも違わないでしょ。それはどうしてかっていうと、駅を使う人がどこもそれほど変わらないからだよ。今、ここは駅としての機能を果してないよね、終電が行った後なんだから。だから、今のこの空間はオレたちの知ってる駅ではないんだよ。その違いがとても違和感のあるものとして受け取っているんだと思うわけさ」
「うーん。じゃあさ。平日に買い物とか行ったりするときの違和感もそういうものなの?
 平日だと人が少なくて新鮮な感じがするじゃな
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い、おんなじ場所でも。だけど、社会性かなあ。私はただ人が少ないって思うだけで、そんなに不自然なほど何かを感じたりしないけどな」
「それは、そんなに変化がないことでしょ。
 そういう例でたとえるならさ。店のオープン前とオープン後で比べるといいかも知れないね。
 ほら。デパートなんかでさ、空きスペースがたまにあるじゃない。でも、しばらくするとその場所に新しく店が入ったりするよね、この場合は違和感を感じるわけだ。なぜって、いままで何にもない空間で、人もいないしただ四角いだけの冷たい空間が、ある日突然モノがいっぱい詰まってて、人もいっぱいで賑やかになってた。そういう違いが言いたかったわけ」
「はいはい。
 そういうことか」
 瀬川は卓也の言ったことが完全に理解できたらしく、何度も頷いた。
「じゃ、映画っていい例だね。
 ねえ、そう考えると、私たちは場所に合わせて行動してるってことになるよね。あ、そっか、それを社会性っていうのか」
 瀬川はそう言って笑いだした。笑い始めの高い声が辺りに響いた。静寂の魔力だ。冷静になんて無理。だって青春だもん。
 卓也は、瀬川を抱きしめた。突然のことに彼女は
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びっくりしたのか笑いが消えたが、静かに腕を回すと、その腕にぎゅっと力を込めた。
「だめだよぉ」
 彼女はその行動とは裏腹に、小さくそう言った。それは、自分に言い聞かせているようにも感じられた。
 頭の位置が違う。やっぱ髪きれい。女の子の匂いがする、いい匂い。やばい、腰が。当たる、当たるってば。ああ、でももういいや。今何考えてんだろ。オレのこと? 参ったな。っていうか、今親が着いたらオレ殺されるかも知れないなあ。ウチの娘に手ぇ出すな、とか言われて。だってこんな時間だぞ? 普通の親なら怒るだろ、絶対。君、何考えてるんだね、こんな時間に。非常識だぞ。とか。あ、失敗。道路側が見えないぞ、この位置だと。いや、いけるな。ガラスに反射するかも。とりあえず何か光ったら離れよう。今無理やり離れるのは出来ないな。ムードって壊したくないし。詩人だし。それは関係ないか。あの詩。今のオレね、まさに。
 
  ここから逃げ出したい
   走り続けて
 
 何だろうね。明日が怖いよ。バトルはしたくないぞ、逃げるからな。二人で勝手にやってくれ。
「帰りたくないな」
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 瀬川はさっきよりさらに小さく、囁くように言ってさらに強く抱きしめてきた。
「オレも」と卓也は彼女の耳元で囁いた。
 ほんとは帰りたいんですけど。言えないし。っていうか、本気? 火を点けちゃったのかな。それも問題アリだな。もう結構時間経ってるはずだけど。まだか? どれくらいこうしてるんだろ。十分は過ぎただろ、絶対。とすると、もう折り返しかな。さっき時間訊いとけばよかったな、失敗した。
 突然、瀬川は身体を離そうとしたので卓也も身を引いた。突然のことに戸惑っていると、瀬川は遠くを見て言った。
「来たみたい。
 ほら、聞こえるでしょ」
 確かに、耳をすますと車の音らしきものがかすかに聞こえていた。
「ほんとだ。じゃ、帰ったほうがいいかな? まずいでしょ、オレ一緒だと」
「どっちでもいいよ」と言って瀬川は笑った。
 笑えない冗談だ、と卓也は思ったが聞き流した。
「いや、帰るよ。
 じゃあね、おやすみ」
 卓也は自転車に乗ろうとしたときに、瀬川がさっと前に出てきてキスをした。そして、
「おやすみ」と言った。
 卓也は自転車にまたがると、急いでその場を離れ
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た。途中で車とすれ違ったとき、横目で中を覗いたがひとりで運転しているのが分かったくらいで、顔までは分からなかった。
 女って大変だな。おんなじことしても怒られるのはいつも女だけ。まあ、仕方ないけど。仕方ないのか? 罪悪感。誘ったのはこっち。でも、断ることは出来たはずだし、たとえ門限があったとしてもそれを守るのは自分だし破るのも自分。オレはきっかけを与えたに過ぎない。きっかけ? ほんとにそうか? きっかけは、きっかけは、そうだ、由紀だ。あれ?
 卓也は今始めて気付いた。今日、由紀の話が出てないよな。そういえば、由紀の名前すら出てないんじゃないか? 何でだ? ありえないだろ、普通。オレ達の共通点は由紀だぞ。なのに、最初から関係無いみたいにすっぽりいなくなってる。いや、そうか、オレは触れないようにしてたんだ。でも彼女は? ただ会話の流れで出なかっただけなのかな。ま、次会ったときの様子で判断するか。それもちょっと怖いな。
 
 翌朝、卓也は由紀と待ち合わせている電車に乗り、挨拶をした。由紀の様子もいつもと変わらなかったので、とりあえず卓也はほっとした。
 いくらなんでもまだ知らないだろ。問題は学校で話す機会がいくらでもあるってことだ。こいつより
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先に会わないといけないな。口封じだ。
 
  おお、この身を守ってくれ、天使たち、その翼のかげに!
 
 でも三年の教室は行きにくいな。昼休みにするか? いやそれじゃ遅いだろう。行動あるのみ。
「ね、昨日はどうだった?
 何話したの」
 由紀は父のことを尋ねたのだが、卓也はそれに気付くまでに時間がかかった。
 最高でしたよ、なんてね。言ったら死ぬ。殺される。父さんのことだよな、もちろん。冷や汗かいたぞ、こいつ。まさか知ってるわけないよな。
「んー、いつも通りだったかな。特に何もなかったよ。ほんとだよ」
「なにムキになってんの」と由紀は冷やかした。
「ばか。
 そうだ、昨日確か、瀬川さんと一緒だったよな、帰り」
 卓也はふと思いだして訊いてみた。
「うん、そうだよ。
 あれに挑戦したんだよ、瀬川さん」
 そう言うとそのときのことを思いだしたのか、由紀は吹きだした。その言い方で卓也には何があったのかすぐに分かった。
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「かわいそうに。しばらくはパフェ見たくないだろうな」
「そう言ってた」
 卓也は笑っている由紀を見て、不意に思った。
 こいつには、知られたくない。
 下りの電車が駅に停まった。通過待ちをしていた電車は、ゆっくりと動き始めた。
 夢だったような気がする。そう考えるのは失礼だな。朝日がまぶしい。睡眠不足なんだろうな、きっと。瀬川。彼女はあれからどうしたろう。車の中で、父親と何を話したんだろう。怒られたのかな。いや、多分。何だよ。昨日からずっと同じこと考えてるな、オレ。どうしたんだ、一体?
 電車を降りて改札を抜けた先に、瀬川が立っていたので卓也はぞっとした。何て言えばいいんだ? 明るく? おはよ、でいいか。
「おはよう、昨日はありがとね」
 先に瀬川から声をかけてきたので卓也は拍子抜けした感じで、声も出せずに軽く手を挙げて挨拶した。
「由紀ちゃん、昨日のすごかったね。
 なんか、思いだすだけでもうダメ」
 二人は手を叩いて笑っていた。その様子があまりに自然なので卓也は脱力感に襲われていた。なんなんだ、一体? どうしてそんなふうに笑えるんだ?
 そのまま三人は並んで歩いていった。コンビニの
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前で突然瀬川は立ち止まって、
「のど渇いちゃった。
 なんか買ってくるからちょっと待ってて」と言って中に入ろうとした。
 すると、その瀬川をさえぎって由紀がドアを掴んだ。
「あー、あたし買ってくる、ここにいて」と言って中に入っていった。
 瀬川は卓也に目配せをした。わざとだ。卓也は直感でそう感じた。
「何も言わないでね。
 はい、これ」
 そう言うと、瀬川は小さく折りたたんである手紙を手渡した。卓也は受け取るとすぐポケットにしまった。読まなくても、何が書いてあるかもう分かっていた。
「じゃ、先に行くね。
 適当に理由付けといて」
 瀬川はそう言って足早にその場を離れた。その後ろ姿を卓也はじっと見つめていたが、そのうち由紀が戻ってきた。
「瀬川さんは?」
「ああ、用事があったんだって。先行ったよ」
「えー。買っちゃったのにな」と言うと袋を卓也に渡した。
 オレよりずっと大人なんだな、って当たり前か。
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大人って何よ。理性的になるってことなのか、それとも冷徹になるってことか? どっちにしても楽しそうじゃないな、大人は。みんなそうだ。我慢して自分をだまして演じて。大人ってそうしなきゃいけないのか? それが常識的な人間なのか? そんな。
 
  この嘆きをきく友もなく
  息もたえ、この傷みに死ぬ
  恋は矢を射るとは知るが
  ああ、いまこそ、毒をもつと知る
 
 何てことだろう。バイロンよ、共に行こうぞ。愛人を持て。おいたさん。良い詩の数は恋の数に比例するのだ。
 卓也は由紀の手を掴んで、学校へ向かった。
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