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- 第四章 -



      四

 東京行きの電車は、まもなく出発しようとしていた。卓也は時間ぎりぎりまで乗らずに、ホームで別れを惜しんでいた。
「着いたら電話してよ」
 と由紀が言うと、卓也は黙って由紀の頬にやさしく触れた。
「こういうの、苦手なんだよな」
 卓也は苦笑した。
「瀬川さんも、元気でね」
 由紀は瀬川と握手をしながら言った。瀬川は大きく頷いていた。そして、ぎゅっと手に力を込めて、
「由紀ちゃん。
 絶対遊びに来てよ、絶対ね」と言った。
 卓也はその二人の様子を眺めていたが出発のベルが鳴り響いたのを確認すると、足元の鞄を持ち上げて、電車に乗り込んだ。ドアが閉まり、走り出すまで、卓也と瀬川はその場で由紀を見つめていた。
 こういうのも、Uターンっていうのかな。大学行かないつもりだったんだけどなあ。やれやれ。
 卓也は美術大学に進学が決まり、父の用意してくれた東京のアパートに住むことになっていた。由紀は受験に失敗して、浪人することが許されなかったので地元に残り、就職が決まっていた。
「卓也くん、ここ空いてる」
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 と言って瀬川は卓也を手招きして、自分は窓際に座った。
「あ、取ったな」
 卓也は笑いながらそう言って、仕方なく隣の通路側の席に座った。
 流れていく景色には時々雪化粧がなされていたが、もう春らしい若葉の緑が輝いていた。卓也は、外を眺めている瀬川の横顔を見た。もう一年半くらいになるのか。事故だって。事故なんて思えるかよ、普通。でもそのおかげで由紀にもばれてないしな。感謝。
「あのさあ」と卓也は瀬川を呼んだ。
「アパート、近いんだっけ。
 あとで住所教えてよ」
「由紀ちゃんから聞いてない?」
 と瀬川は窓の外を見たままで言った。
「私、おばさんのとこに下宿するの」
「そっか」
 卓也は少し残念そうに言うと目を閉じた。下宿。父さんのとこに。うわ、最悪。すごいだろうな、毎日楽しそうだ。憎悪の日々。勉強どころじゃありません。
「私さ。
 浪人してるとき、すごく辛かったの」
 と瀬川は突然言い始めた。
「迷惑もかけてるし。ほら、ウチのほうって、まだ
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まだアタマが硬いっていうか、古いっていうか。
 ほら、由紀ちゃんも浪人ダメだったでしょ、そういうのまだ残ってて。男尊女卑ってほどじゃないんだけど。女に教養はいらないっていう古い人もまだいるのよ。だから、辛かったんだ、すごく」
 卓也は黙って聞いていた。そして、ふざけたことを考えていた自分がちょっと恥ずかしかった。瀬川は、さらに続けて言った。
「お父さんがやりたいようにしていいって言ってくれて。私を守ってくれたのね。すごくうれしかったな。
 だから、お父さんの負担を少なくしたいの。部屋借りてもいいって言ってくれたけどね。おばさんがウチおいでって言ってくれたから。おばさんに甘えようかなって思った」
「なるほどね。オレの親とは正反対のすばらしい人だよ。うらやましいね。
 でもさ。そういうことなら、余計がんばらなくちゃな。いつでも力になるよ、オレでよければ」
「ありがと」と瀬川は微笑んで、
「いつも励ましてもらってるね」と言った。
 卓也は黙って首を振った。
 電車は長いトンネルに入った。窓に瀬川の横顔と自分の顔が並んで映っていた。変わらない景色と、電車の揺れが何とも言えぬ旅情を醸しだしていた。故郷との別れと、新しい生活への期待と不安、高校
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での思い出、そういった様々な記憶や感情が複雑に入り乱れて卓也は言葉が出せなかった。
 卓也が長いトンネルの中でぼんやりしていた頃、純は美紀と待ち合わせをしていた。二人の関係はもう周知の仲で、周囲に温かく見守られながら、順調に交際を続けていた。
 待ち合わせは駅ビルの中にあるカフェで、美紀は珍しく、時間より早くに到着していた。純から名前だけは聞かされていた、卓也と初めて会うということもあって、普段は滅多にしないメイクもした。色の白い美紀はチークを入れすぎると熱があるみたいに見えてしまうのだが、今日はうまくいったと自分でも思った。そのことで、家を出るときに、母にも冷やかされた。
 デートのときよりも気合入ってるわね、と美紀は母に言われた。大きなお世話、と美紀は思ったが口に出さなかった。
 そのときのことを思いだすと、可笑しかった。美紀はエスプレッソのカップに残った口紅のあとが気になったので拭き取ると、時計を見た。待ち合わせの時間まであと十分。おそらく、五分以内に純は来るだろう、と美紀は思った。そして、一体どんな顔をするだろう、と想像すると、なんだかうれしくなった。
 美紀の予想通り、待ち合わせの五分前に純は現れた。純はすぐに美紀に気付いた。
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「もう来てたの」と言いながら席に座ると、
「あれ。どうしたの、いつもと違うね」と言って微笑んだ。
「たまにはね」
 と美紀はうれしそうに言った。
 純も美紀と同じエスプレッソを注文した。卓也が到着するまでには、まだずいぶん時間があるので、ここで少し時間を潰して、それから東京駅に向かおうと思った。
「ね、今日これから会う卓也くんって、もうずいぶん会ってないんでしょ」
 と美紀は言った。
「うん、でも見れば分かると思うよ。だって、三年くらいだもん。そんなに変わるわけないよ」
「写真とかないの」
「ないよ。だって、会ってないんだから」
「そうだけど」
 美紀は少し残念そうだった。純は美紀のその態度に、かすかな嫉妬を覚えたが、黙っていた。
「ねえ」と美紀は遠慮がちに言って、
「いいのかな、私も一緒で。だって、久しぶり会うんでしょ。二人のほうがいいんじゃない、変に気を使われても嫌だし」と言った。
「なに言ってんの。
 いまさらそんなこと。大体、ほんとにそう思ってるんなら、今日誘ってないよ。そうでしょ?」
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 と言うと、純はにっこり笑った。その笑顔を見て、美紀も納得したのか、
「そうだね」と言った。
 時計を見ると、まだ一時間も時間があった。中途半端な時間だな、と純は思った。映画には足りないし、かといってこのままここにいるには長すぎる。美術館は最近行ったばかりだし。困ったな。
 純があれこれ考えていると、美紀が、
「せっかくだから、この辺見ていこうよ。
 時間あるでしょ、まだ」
 と言ったので、純はあまり気乗りがしなかったが、
「そうするかな」と言って、そのあとで、
「でも買わないよ」と念を押した。
 美紀は肩をすくめた。
 二人は席を立つと、ひとまず上の階を目指した。一番上まで行って、そこから降りていくという予定だった。
 エレベーターが開いたので中に入ると、
「あ、屋上行く」
 と言って美紀はボタンを押した。
「屋上って、駐車場だよ」
 純は勘違いしているのかと思ってそう言ってみたが、
「知ってるよ」と即答された。
 仕方なく言う通りにして、屋上で降りると、そこ
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はやっぱり駐車場で何もなかった。美紀は奥のフェンスに向かって歩きだした。
「景色いいよ、ほら」
 と美紀は言って、純を手招きした。
「おっ。富士山見えるよ」
 この時期の澄んだ青空は、遠くまで見渡せて、くっきりと雪化粧した富士山が確認できた。ここまではっきり富士山が見えるのは週に一度か二度で、極端に珍しいことではなかったがここのように高いところから見るのは初めてで、いつもとは違う景色に純は新鮮な驚きを覚えた。
 純が富士山に感動していた頃、卓也も富士山をぼんやり眺めていた。そのうち、瀬川もそれに気付いて、
「富士山」と言った。
「見てるよ。
 中学のときは結構、よく見てたんだ。朝、学校行くときとか。冬場、空気が乾燥してるからなのかな。年末くらいから三月くらいまで、よく見えるよ。
 晴れてればね」
 ふうん、と瀬川はそんなことはどうでもいいといった感じで、じっと眺めていた。
「卓也くんはずっと住んでたんだもんね。帰ってきた、って感じなの?」
「それがさ。なんか、複雑なんだよな」
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 卓也はそう言うと腕組みをしてちょっと考えた。
「住んでた時間は長いんだけどさ。帰る場所、って言うのかな。そういう場所は、ここじゃないんだよな」
「キミは、複雑だからね、いろいろと」と瀬川は言った。それから、
「今日は、着いたらどうするの。すぐ自分のアパートに行くの?」
 と訊ねたので卓也は一瞬迷ってから、
「いや、今日はホテルに泊まる。
 昔の友達と会うことになってるんだ、一緒に来る?」
 と誘ってみた。
「え、私も?」
 あまりに急なことなので、瀬川はちょっと迷っているようだった。卓也にしても、本気で誘ったのではなかったので、興味がないなら来なくてもいいと考えていた。
「まあ、どっちでもいいよ。その場のノリで決めたら」
 と卓也が言うと、瀬川は吹きだした。
「うん、絶対そう言うと思った。
 じゃ、そうさせてもらおうかな」
 卓也は、いいよ、と言った。そして、純のことを考えた。あいつ、一人で来るのか? それともオンナ付きかな。ベタ惚れみたいなこと書いてたしな。
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そっちのほうが楽しみだな。
 卓也はつい、にやにや笑ってしまったので、瀬川は卓也の頬をつついた。
「なにニヤニヤしてんの」
 と瀬川は冷やかした。
「ん、別に。
 久々に友達と会うからさ、いろいろ思いだしてた」
「もしかして、友達って昔の彼女じゃないよね」
 と瀬川は訊いた。その眼差しには、ちょっとした不信感のようなものが見え隠れしていた。
「まさか」
 と卓也はあわてて否定して、
「親友だよ。ずっと手紙のやり取りもしてた。男だよ、やだなあ、全く」と言った。
「ムキにならなくてもいいのに」
 瀬川は笑っていた。
 後ろから車掌が切符の確認に周ってきていた。あとどのくらいだろう、と思い、
「あとどのくらいですか」
 と周ってきた車掌に訊ねた。車掌は、切符を見ながら質問され慣れているのか、
「三十分くらいですかね」
 と卓也を見ることなく、そう言った。
「どうも」と卓也は言って、それから車掌が離れてから、
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「無愛想だな」とこぼした。
 会話をしたというより、仕事のひとつのように事務的だったことに、何となく気分が悪かった。しかし、自分を含めて、同じ事を訊いた人間が一体何人いたのだろう、と考えると、その態度は分からないでもなかった。窓の外の景色は、集落と野原や山林との間隔が目に見えて狭くなってきていて、また雪がなくなっていることも、東京に近づいているということを実感させていた。
 静かだと思い瀬川を見ると、眠っている様子だったのでそのままにしておいて、卓也はぼんやり外を眺めていた。
 瀬川が転寝をしていた頃、純と美紀は駅のホームに立っていた。まだ時間は早かったが、純があまりにも退屈そうだったので、美紀は見かねて、もう行こうと言ったのだった。
 平日の昼間ということもあり、電車は空いていたが座れなかった。一人分のスペースはあるのだが二人とも譲り合ってしまったので空いた場所の前に二人で立っていて、そういう状況だと他の人も座りにくいのか不思議に空いたままになってしまって、そのうち電車は動きだした。
 思いのほか電車は揺れて、荒い運転だなあと思っていたら今度は急にブレーキがかかって、ドアの前に立っていた女子高生がもう一人の女子高生とぶつかって、二人で笑っていた。
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「なつかしいね」
 と美紀は言った。純も同じように感じていたので、うん、と頷いて女子高生から目を逸らした。
 自分が高校生だったときには分からなかったが、高校生というものはやっぱり輝いて見えて、自分もこんなふうに輝いて見えていたのかしら、と純は考えた。しかし、それはおそらく自身の思い出に重ねて見ているせいなのだろう、と考えると、それはやっぱり郷愁で、美化された思い出に対しての感情なのだろうと純は思った。
 それから、自分は高校生に戻りたいのだろうか、と考えると、複雑な気持ちがした。輝いて見えるのは、やはりそこに羨望があるはずで、そうするとやり残したことや取り返したい過去があるということになる。卒業してまだほんの数日だというのに、そういう気持ちになるということは、相当なことだと思った。
 二人は早々と目的地の東京駅に着くと、とりあえず卓也が到着するホームの番号を探して、それから椅子に座って待つことにした。
「本でも持ってくればよかった?」
 と美紀は皮肉っぽく言って、ふふと笑った。
「あ」
 純は美紀の言葉を聞いて思いだした。
「そうだ。本。忘れてた」
 純は、卓也から借りっ放しの文庫本を持ってくる
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つもりだったがすっかり忘れていた。
「真顔でそんなこと言わなくても」
 美紀は少し不機嫌そうな顔をして、純をにらんだ。純はあわてて、
「そういう意味じゃなくて。
 卓也から借りてた本。持ってこようと思ってたんだよ」と弁解した。
「なんだ」
 と美紀は自分の勘違いに気付いてほっとした。
 電車の到着する時間が近くなってくるにつれ、純はなんだか複雑な気持ちになってきた。あれほど会いたいと思っていた卓也と、今こうして全く違う立場になって会うということを想像するのは難しかった。詩人になりたいと言っていた卓也が、絵を選んだことも衝撃だった。彼は変わってしまったのかもしれない。そう考えるのは恐ろしかったが、それが現実なのだろうとも思った。
 純は時計を見て、そろそろだと思って到着するホームに向かうことにした。
「今の気持ちは?」
 と美紀が訊ねると、純はちょっと考えてから、
「うん、なんだろ。変な感じ」と苦笑した。
 ホームには、純と同じように出迎えらしい人たちがうろうろしていて、そういう人たちを見るとなんだかほっとした。
 やがて電車が来た。ゆっくりとホームの中に入っ
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てきて、停車してドアが開いた。降りてくる人ごみの中から必死に卓也の姿を探した。そして、その姿を確認すると、純はどきどきした。
「卓也」
 純は走り出した。すると、卓也も純に気が付いて、懐かしい笑顔を見せた。
「おおっ、久しぶりだな。
 元気だったか?」
 卓也はそう言って、純の手を取って握手をした。
「うん、もちろん。
 会いたかったよ」
 そこへようやく美紀が追い付いて、
「はじめまして」と軽くお辞儀をした。
「彼女。美紀っていうんだ。
 で、こっちが卓也」
 と純は簡単に紹介をした。
「どうも。彼女かわいいな、え。
 ああ、そうだ、この人は瀬川さん。んー、高校の先輩」
「あ、どうも」
 純はぺこりと頭を下げた。瀬川は笑っていた。
「じゃ、とりあえず行こうぜ。
 瀬川さんはどう、決めた?」
 と卓也は振り向いて瀬川に言った。
 瀬川はそうねぇ、とつぶやいて、決めかねている様子だった。ひとしきり首を傾げたり、腕を組んで
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みたり周囲や卓也、純と美紀を順に見ると、頷いた。
「じゃ、行こっかな。面白そうだし」
 瀬川がそう言うと、四人で歩き始めた。なんだか不思議な集団だな、と美紀は思った。
 荷物もあるし、外に出るのはめんどくさいということで、最初に目に付いたレストランに入ることになった。卓也は相変わらずで、自分の知っている卓也だったことを純は心から喜んだ。
「ちょっと遅いおやつタイムだ」
 卓也はそう言って抹茶アイスとショートケーキを頼んだ。それには純も驚いて、
「そんなに甘党だったっけ」
 と訊ねると、瀬川がぷっと吹きだした。
「彼女の影響なのよ、これ。
 ね、卓也くん」
 瀬川はケラケラ笑っていて、それに釣られてみんなで笑った。それに対して卓也が、
「うるさい」
 と言うとそれが余計に可笑しくて、止まらなくなってしまった。
「純くんから聞いてた卓也くんのイメージと違うんだけど」
 美紀は笑いすぎて、うっすら涙を浮かべてそう言った。
「へー。そりゃどうも。
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 ってお前、どんなこと言ったんだよ」
「別に。普通だよ。だって変なこと言う必要ないじゃないか」
 と純はあわてて否定した。卓也はそういう純の様子を楽しんでいるようで、
「まあそうだ」
 と言って笑った。
「ちょっと自己紹介しようよ。
 私、さっき突然誘われてここにいるんだけど。よく分からないから」
 と瀬川が言うと、美紀も頷いた。そこで、急遽自己紹介をすることになって、それぞれ自分とここにいる人たちの関係を話していくと、やっと理解できたらしく、
「よくわかった」と言った。
「私、二人がつきあってるのかと思った」
 と美紀が言うと、卓也と瀬川は顔を見合わせて笑った。
「でも、瀬川さん。
 おばさんのとこに下宿でしょ、迎えに来たりしないの」
「ん、平気。勝手に行きますって言ってあるから。少し遅くなっても平気でしょ、多分」
 そう、と純は曖昧に相槌を打って、
「卓也は」と今度は卓也に訊ねた。
「オレ?
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 管理してる不動産の店に行って、入居の手続きするからな。今日はどっか泊まって、明日の朝行くことにする」
「じゃあ、ウチ来なよ」
 と純が言うと、卓也は手を振って、それはできないと言った。
「だって、こんな荷物だしな。迷惑だろ。それにこの状態でここから電車に乗ってまだ先に行くなんて疲れるし。ま、落ち着いたら連絡するよ。遊びに来ればいいじゃんか。
 それより」
 と言って卓也は美紀を見た。
「キミたちの事を話してくれよ。高一のときから続いてるんだろ」
「へぇ、卓也くんたちより長いんだ」
 瀬川は感心しているようだった。
「図書室でデートしてたんだって聞いたけど」
「ちょっと違うのね、それ」
 美紀は笑って言った。
「え、違うの」
 卓也は反射的に純を見た。
「正確には、違うかな。でも、ウソついたわけじゃないんだ、話すと長くなるから」
 そう言うと純はちょっと紅くなった。そのしぐさに、変わってないな、と卓也は思った。
「別に、そんなことどうでもいいって。
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 卓也は、どうなの。彼女とは遠距離になるわけだし、さみしくないの」
「それはないでしょ」
 と瀬川は笑って言った。
「ずいぶんだなあ、それは。
 でも、その通りなんだからしょうがないか」
 と卓也も笑った。純は美紀と顔を見合わせて、どういう意味なんだろう、と考えていた。
 あんまり遅くなってもいけないから、と、ここで瀬川はもう行くことにして、それじゃあ解散しようということになって、ここで別れることにした。帰り際、一応みんなで連絡先を教えあって、また今度、と言って別れた。
「きれいな人だね」
 瀬川と卓也が行ったあとで、美紀はしみじみ言った。純はなんと言っていいか分からずに、黙って美紀の横顔を見つめた。
 
 それから入学式やら歓迎会やら立て続けにイベントがあって、気が付くと一ヶ月が過ぎていた。しかし、それでも卓也からの連絡が来ないので純はもう待ちきれなくなっていて、夕方、講義が終わってから美紀と会ってもその話ばかりだったので、
「じゃあ、電話すれば」
 と言われて、それでやっと連絡を取る気になり、電話してみたが出なかった。
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「忙しいのかな」
 純は受話器を置いてがっかりしたのか、それともほっとしたのかよく分からないため息をついた。
「直接行ってみたら」
 と美紀は言った。美紀なりに励ましてるんだ、と思うと、今卓也のことを考えるのは失礼な気がした。
「いや、いいよ。
 また今度にする。どうしても会わなきゃいけない理由もないし」
 でも、と言いかけた美紀を制して、
「お腹空いた。
 なんか食べに行こう」と言って美紀の手を掴んだ。
 その頃、卓也はまだ校内にいて、さっきまで行われていた課題の批評会について、その場に残っていたものたちで話していた。
「ちくしょう。好き勝手言いやがって。
 なんなんだ、あいつは」
 と卓也は不満をぶちまけると、ちっと舌打ちした。
「先生でしょ」
 と、隣にいた女子が皮肉った言い方をした。背の高さと雰囲気が由紀に似ていて、いまどきの娘らしい、目の大きなかわいい顔で紅葉のような赤茶色のショートヘアが人目を引いた。
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「彩子さあ」
 と、卓也が言いかけると、
「ヤッコでいいよ。
 彩子って言いにくいでしょ」
 などと言うので、卓也は「ヤッコ」と言い直して、
「いちいちケンカ売ってくるの、やめてくれない?」と言った。
「はあ?
 感想だよ、感想。あんた愚痴言い過ぎ」
 彩子はわざときつい口調でそう言うと、卓也のイーゼルを自分のほうに向けて、その絵をじっと見つめた。
「あたしは好きだけどな、こういうの。ね、何て言われたんだっけ」
「奥行きがない。うすっぺら。その他」
 と卓也はそのときのことを思いだしたのか、いらいらした感じで言い放った。
「あー。影がないからだよ。そう言われると壁みたい。もっと中間色使いなよ」
「そうか。
 ねえ、ヤマさんはどう思う?」
 と、卓也は後ろで帰る仕度をしていた体格のいい青年に話しかけた。
「なにが」
 とヤマさんと呼ばれた青年はあごひげを触りなが
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ら卓也たちのほうに目を向けた。
「今日の批評会の話。
 ねえ、ヤマさんの目から見て、どうよ」
「お前の絵、反対色使えよ。あと、影に黒は使わんほうがいいぞ」
「なんかさ、山口さんが言うと説得力あるね」
 彩子は感心してそう言った。
「ヤマさん、さすがだよ。
 このクラスで一番うまいの、ヤマさんだな。さっき見たとき、すげえと思ったもんな」
 褒められて山口はちょっと表情が緩んだ。
「あほ。伊達に留学してないわ」
「二年だっけ。どこに住んでたの」
「パリだよ。ほんとはニューヨークがよかったんだけどな」
 山口はそう言うと何か思いだしたのか、一瞬動きが止まった。
「パリだって。ステキー。
 とか言えよ」
 と言って卓也は彩子をつついた。彩子は、そんなことは無視して山口をじっと見て言った。
「ね、山口さんって今いくつ?」
「ん? 二十歳だよ」
「あ、じゃあ、オレのふたつ上か」
「あたしもだ。
 えー、もっと上かと思ってた」
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 と彩子は失礼なことを平気で言っていたが山口は気にしていない様子で、
「よく言われるよ。この間なんか、二十五と思われたぞ。どこ見てんだって感じだよな。このぴちぴちした肌を見ろってんだ」
「笑えねー」
 と言いながら卓也は大笑いしていた。
「ひげ。ひげ剃ったら若く見えるよ、きっと」
 と彩子までが言うので、山口はさすがに閉口して、
「うるさい」と言ってまた帰る支度を始めた。
「冗談だよ、ヤマさん。
 今日さ、このあとちょっと行こうよ」
 と言って、卓也はコップを口に運ぶ動作をした。
「あたしも行くー」
 と彩子は元気良く手を挙げた。
「彩子も?」と山口が言うと、またそこでヤッコ、と彩子は訂正した。
「いいよ、彩子で。言いにくくないよ、そんなの。ヤッコのほうが言いにくい」
 と山口が言い返すと、彩子は、
「ならいい」と言った。
 そういうことになったので、卓也も片付け始めて、三人で近くにある焼き鳥の暖簾をくぐった。
 小さな店内はいつもならいっぱいになっていて、相席もよくあるのだがまだ時間も早いせいか、閑散
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としていた。卓也たちは奥のテーブル席に着くと、ビールで乾杯した。
「ヤマさんは、なんで帰ってきたの」
 卓也は突然訊ねた。
「金がなくなったからだよ」
 山口はそう言って、ビールを咽に流し込んだ。
「じゃあ、別に帰りたくて帰ってきたわけじゃないんだ。また行きたいと思う?」
「別に。もういいよ」
「なーんか、やるきないね」
 彩子はテーブルに肘をついて、さらに頬杖を突いていて、右手でジョッキを持っていた。
「お前、オヤジみたいだな」
 卓也は呆れて言った。
「なんとでも言えー。
 楽だからこれでいいのッ」
「彩子はそれでいい」
 と、山口まで言うので卓也はもう言わないことにした。
「ところで、キミらはなんでこの大学に来たんだ?」
「受かったからー」
「同じく」
 卓也と彩子はそう言うと、な、と顔を見合わせた。
「そりゃそうだけどな。やっぱり絵を描いて飯食っ
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ていこうと思うんだろ。オレの場合は色の使い方を勉強したくてここに来たわけなんだ」
「色の使い方ってなに」
「絵の具の個性を理解した使い方だよ。油絵具って、混ぜると顔料が化学変化起こすのとかあるだろ。有毒ガスが出る組み合わせは知っとかないとな。あと、透明色。単色のときと重ねて塗ったときの色が違うのがあるだろ、下地の色を生かす色。そういう組み合わせを知りたい」
「あー、それは知りたいところだね」
 と言って卓也は頷いた。
「他にもたくさんあるけど。結局は自分でいろいろやって覚えるしかないんだけどな」
 そのとき、注文していた品がまとめて来たので、テーブルはいっぱいになってしまった。
「はいはい、じゃ、取り分けまーす。
 おいしー。
 これ食べなよ、おすすめ」
 と、彩子は来たそばから手を出して、自分の口にも入れながら取り分けていた。
「彩子のそういうとこいいな。
 これからいつも彩子誘お」
 と山口は笑いながら言った。
「えー、こんな色気ないやつ、いいよ」
 と卓也が言うと、彩子はきっと睨み、
「なんだとー。
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 色気ないとは失礼な。年頃の娘になんてこと言うの、こらァ」
 と卓也の横顔を割り箸でつついた。山口はずっと笑って見ていた。
「だからいいんだよ、おれたちは仲間だ。仲間同士では恋人にはなれない。同じ学校の中で付き合うのはごめんだ」
「どうして?」
 彩子は訊ねた。
「別れたら気まずいから」
 山口はそう言うとビールを飲み干した。
「それ分かるな。同感」
 卓也もしみじみと、頷きながら同意した。
「えー。なんで別れることまで考えるの」
「普通考えるだろ。
 卓也、お前彼女いるか?」
 山口はそう言って卓也を見た。
「地元にいるよ。遠距離ってやつ」
「遠距離は続かないな。こっちでつくれば」
「なんでよ」
 と彩子は割り込んできて、
「そんなの、分からないじゃない。会えないからって、連絡ちゃんと取ってれば平気だってば」と言った。
「それより、ヤッコはどうなんだよ。オトコいるのかよ」
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 すると、彩子は黙ってしまった。
「……別れた」
「いつ」と山口が訊ねた。
「先月。しかも突然だよ。バカにするなって感じだよねー」
 彩子はビールをあおって、それから唐揚げをほおばった。
「ま、そのうちいいこともあるだろ。
 ところで、話を最初に戻してもいいか」
 山口はそう言うと二人を交互に見た。
「なんだっけ」
 と卓也が訊くと、山口は「目的」と言った。
「ああ、そうだった」
 卓也はぱんと手を叩いた。
「オレさ。もともとはこっちに住んでたんだ。で、親が離婚して母親の実家近くに引っ越したんだけど、近くに山があってさ。あー、また名前忘れちったよ。で、すっごいきれいに変化するんだよ、四季ってすごいな。山の色がさ、変わってくのをよく見てたなー。
 夕焼とか、朝焼もきれいなんだよ、もう見とれちゃうくらい。いっぱい描いたな。そういうのをさ。オレ、自分の見たものを自分の目線で、描きたいって思った。だから、ここにいる」
「写真じゃダメなの?」
 と彩子は訊ねた。
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「ダメだね。
 写真は、一般的すぎる。ものの見え方って、みんな同じだと思うか? 違うんだよ。違いすぎる。『見る』って行為はさ、認識することなんだ。『見える』っていうのは、映像を垂れ流してるだけだから残らないんだよ。でも、『見る』とき、何かを感じるだろ。きれい、とかかわいい、とかおいしそう、とか。
 な、そういうのって記憶に残るだろ。それは、脳の中で一旦映像から切り取って思考回路に引き渡すからなんだよ。で、この変換のときに過去の記憶とか経験とか、そういうのを総動員して結論を出すわけ。だから、『見る』っていうのは、個性なんだ」
 すると山口はちょっとあごひげを触りながら、
「それ、ちょっと面白いな」と言った。
「うん、確かにね。あたし、お刺身嫌いなんだ。でも、好きな人はおいしそうって思うわけでしょ。同じもの見てるのにね」
「小学生のとき」
 と、突然山口が話し始めた。
「写生会ってあったろ。
 オレたち、校舎を描いてたんだよ。そしたらさ。みんな窓ガラスを水色で塗るんだ。オレは薄い黒で塗ってたからさ。そりゃ驚いたよ。なんでみんなそろって水色なんだ? ってさ。もうずっと分からなかったんだけど、卓也の話でちょっと分かった気が
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したな」
「どういうこと?」
 彩子は難しい顔で訊ねた。
「だから、水だよ。水色。プールとかコップとか、水の入ったものは水色で塗ってたんだ。だから、その連鎖的な思考で透明なものは水色になってたんだよ」
「あー。確かに。そうだね」
 彩子はちょっと興奮気味に同意して、ここで不意に二人のジョッキが空いていることに気付いた。
「ちょっと、みんな空っぽだよ。飲も、ね。
 すいませーん、生みっつ」と叫んだ。
 
 そうこうしているうちに前期が終わって、夏休みに入ってしまった。純もレンタルビデオのアルバイトで忙しかったので、未だに卓也とは会っていなかったが、何度か電話では話していて、明日会う約束をしていた。
 アルバイトが終わって帰宅すると、純は久しぶりにスケッチブックを開いた。周りが僅かに変色していたが、とても懐かしい紙の匂いがして、一瞬中学時代の卓也と過ごした放課後を思いだした。  卓也は、卓也だった。変わっていなかった。純はうれしくなって、微笑んだ。思い出と共に当時の感情などもよみがえってきて、純は胸がいっぱいになってしまった。あまりにたくさんのことが同時に湧き上が
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ってきたので、それらを言葉に変換している暇すらなく、ただひたすらそのうねりに飲み込まれていた。
 長いこと純はそうやって半ば呆然としているように、スケッチブックに向かっていたが、ふと我に帰ると、鉛筆を取って何かを書き始めた。
 
  ことば では
  あらわし きれな い
     もの
  こころ の なかに  ある
  ほんの ちいさな ちいさな
   きもち の   かけら、
    ひろって あつめて
     ひろって かたまり
  むねに つまって
   ぽろぽろ
          こぼれた、
  くちから  でて これない
  ちいさな きもち、
  ことばには なら ない
  ちいさな きもち、
          やさしいきもち。
 
 純は鉛筆を置いて、読み返した。
「……書けた」
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 声が震えていた。純は胸の奥底から湧き上がってくる衝動を抑えきれずに、涙がこみ上げて来た。
「やっと、やっと」
 純は手で涙を拭うと、立ち上がってそのままベッドに横になった。およそ三年のスランプから脱出した瞬間だった。
 翌日、夕方になってから純は卓也の部屋に向かった。教えられた住所はすぐに分かった。というより、目印になる建物が隣にあって、それは何かというと神社なのだった。純は、神社の鳥居を目印に歩いていた。東京は坂が多く、卓也の住んでいるアパートも斜面に建っていて、自転車だと辛そうだ、などと思いながらも純はアパートの中に入っていき、二階の一番奥の部屋に向かった。
 ドアには、「大沢」と紙に手書きで書かれた表札が張ってあって、その名前の下には「叩くな」と小さく書かれていた。ドアを叩くな、ということだろうか、と思ったので、純はノックしようとしていた手を止めて、
「卓也」と小さく叫んだ。
 反応がないので、もう一度呼ぶか、もう少し待つか、それを判断しかねて迷いながらそのまま待っていると、
「もう来たのか」
 と、階段の方向から声がしたので振り向くと、卓也が立っていた。それを見ると純はほっとした。
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「ごめん、ちょっとバイト終わんなくて。
 さ、勝手に入ってくれ」
 卓也は鍵を回してドアを開けると、そう言って自分は先に入っていった。一応キッチンがあって、その奥の六畳の部屋の中には、数枚のキャンバスが置いてあって、油絵具特有のにおいがした。
「ここでも描いてるの」
「ん、ああ、におうだろ。大家が来るのが怖くてな。なんか言われそうじゃん。
 課題があるからな、毎週金曜に批評会があってさ。そのときにみんなの前で教授にダメだしされるんだ」
 へえ、と純は気のない返事をして、部屋の隅にある絵を眺めた。
「それは今描いてるやつだよ。
 そこの神社、鬱蒼としてるだろ。カラスが多いんだ、寝床になってるんだな、きっと。だから、真っ黒にしてやった」
 確かに、そこに描かれていたのは暗闇に浮かび上がる鳥居のようだった。純は夜なのかと思っていたら、それはカラスの大群だったらしい。
「絵を描いてると、言葉の無力さをすごく感じるな」
「えーっ。
 卓也からそんな言葉を聞くとは思ってなかったよ。もうびっくりだ」
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 と純は興奮気味にそう言った。卓也は苦笑して、
「なんだよ、純だってもう書いてないんだろ。一回も送ってこなかっただろうが」
 と返した。
「それが」
 と純はにやにや笑った。
「書けたんだよ。しかも昨日。もうずっと書けなかったのにさ。持ってきたよ」
 と純はポケットからメモを取り出して卓也に渡した。
「へえ。スランプ脱出ってわけだ。どれどれ」
 卓也はうれしそうに読み始めた。そして読み終わると、純の腕を平手で叩いて、
「こんな詩書きやがって」
 と言って笑った。純は卓也のその様子を見て、気に入ってもらえた、と思った。
 そのとき、部屋のドアを誰かが叩く音がした。
「あっ。また叩いてる。ちくしょう」
 と卓也は愚痴をこぼしながらドアを開けに行った。
「おう、遊びに来たぞ」
 と山口が言った。その隣には、彩子もいた。
「今、友達来てるんだけど」
 と卓也は言って、追い払おうとしたが二人はそのまま部屋の中に入ってきた。
「どーも、始めまして。山口です」
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「どーも。ヤッコです。よろしく」
「はあ」と純は曖昧に言って、
「純です。よろしく」と挨拶した。
「悪いな、純。こいつら大学の仲間なんだ」
 卓也はそう言うとキッチンに行ってグラスの用意を始めた。山口は慣れているのか、立てかけてあった折りたたみ式のテーブルを真ん中に置いて、そこに持ってきたお菓子を並べ始めた。
「えーと、純くんも座りなよ」
 山口はそう言って純を促した。そして、純の両脇に山口と彩子が座り、純と向かいの空いているところが卓也の席となった。
「純くんも大学生?」
 山口が訊ねた。
「はい、一応」
「こいつは詩人なんだよ」
 と卓也が戻ってきてそう言った。それから、グラスを置いて席に座ると、
「よし。とりあえず乾杯しようぜ」と言った。
 四人はとりあえずの乾杯をして、そうすると純もリラックスしたのか、硬さが取れたようだった。
「カラスの絵はだいぶ進んだな」
 と山口は後ろに置いてあった絵を見て言った。
「それ、この間の批評会で散々言われたやつでしょ。まだ描いてたの、それ」
 彩子は半ば呆れた様子で言った。それから、純の
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ほうに顔を向けて、純をじっと見ながら、
「ね、純くんって同い年?」
「うん、卓也と一緒だよ。えーと」
「ヤッコ」と彩子は先に言った。
「あ、ヤッコ、も一緒なの?」
 言い馴れないせいか、純は戸惑いがちに訊ねた。彩子は笑っていた。
「で、オレだけ年上なんだよな。でも、誰も敬語なんか使わないよ。今は同級生だもんな。年喰ってるからって偉いなんてことないからな」
 山口は空になったグラスに手酌していた。その様子や、話し方が卓也と似てる、と純は思ったが言わなかった。
「ヤマさんは」と彩子が言った。いつの間にか、彩子もヤマさんと呼んでいた。
「みんなのリーダーだよね。やっぱり、大人だもん。話してて、そう思うときいっぱいあるよ。思わないときもあるけどね」
「あはは」
 と山口は自分で笑って、
「な、こんな感じだよ。純くんのとこにもいるだろ。年上」と純に訊ねた。
「こいつはエスカレーターだから。高校からの仲間が多いんだよ、な」
 卓也は代わりにそう言うと、純に同意を求めた。
「うん、そうなんだ。でも、やっぱりいるよ、年上
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の人は」
「へー。じゃあ、受験してないんだ、純くんって。いいなあ。うらやましい」
 彩子はそう言うと腕を組んでテーブルに肘を乗せた。いつもと違うそのしぐさに、卓也はまさか、と思った。
 それから、アルコールも入っていたので次第に快活になっていき、山口は「くん」をつけるのが面倒になってきて、「純」と呼び捨てになった。すると、純もみんなに合わせて「ヤマさん」と呼ぶようになった。
 彩子はいつにも増してすごいハイペースで飲み、だいぶ回っている様子で目が潤んできていた。
「でもさあ。いっつも思うんだけど、ここってヤな感じだよね。隣神社だよ、お化け出ない?」
 彩子はそう言うと、両手をだらりと垂らして、お化けの真似をした。
「出ないよ。そんなの。いるわけない」
 と卓也は一蹴した。
「わら人形叩く音とかする?」
 と彩子が言ったので、みんな大爆笑だった。山口はツボにはまったらしく、裏返った声でひいひい言っていた。
「彩子、座布団一枚」
 笑いながら山口はそう言うと、さらに笑った。
 純は笑いながらも、ちょっと考えていた。「お化
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け」という言葉と、その概念ともいえる「お化け自体」は、もしかすると違うのかもしれない、などと考えていて、そうすると、今彩子が言った「怖い」という感情に結びついたのはどっちの「お化け」なんだろう、と思った。
 彩子がわら人形を連想したのは、多分「怖い」という範疇のなかの「お化け」で、そう考えると「お化け自体」なのだろうかと考えられるが、それもまた不思議な気がした。彩子にとっては、それは「お化け」でも「幽霊」でも「ゾンビ」でもきっと同じで、それらはひとくくりで「怖い」というものでしかなくて、単純にその「怖い」というもののなかからの連想として、偶然わら人形が出てきたんじゃないかと思った。
 笑っていた山口が落ち着いて、
「あー笑った」と言ったあと、
「お化けってのは、実在しないんだよ」
 と卓也が言ったのでみんなが卓也を見た。
「お化けっていうと、四谷怪談とか、まあだいたい幽霊のイメージだよな。でも、そういうのはお話なんだよ。そうだろ。で幽霊、って言葉は、オレたちどんなふうに使ってる? 実体がないものとして使わないか? 『幽霊会社』とかさ。な。オレたちは、自分でも気付かないうちに、存在しないって分かってるんだよ」
 すると山口は腕組みをして何かを考えていて、ち
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ょっと間をおいてから言った。
「それは違う気がするんだよな。
 イメージと言葉は切り離すべきだ。だって、イメージっていうのは、自分のものなんだぜ。でも言葉は一般的なものを差すわけで、それは一緒にしちゃいけないだろ。
 幽霊が怖いって感じるのは、その実体が分からないからだよ。見えないもの、知らないものだから怖いんだ。言葉は関係ないんじゃないか」
「ひとつ気になったんだけどいいかな」
 と純が言ったので今度はみんなが純を見た。
「あのさ。今ヤマさんが言った、『怖い』っていうのと少し被るんだけど。
 言葉とそれ自体っていうのはやっぱり違うと思うんだ。でも、それをつなげているのもやっぱり言葉の役割なんだよね。『怖い』っていう言葉からの連想として、記憶のなかで結び付いた感情とか経験のなかから、引っ張ってきたのが、さっきの『わら人形』だと思うんだ」
 と言って純は彩子を見た。彩子は目が合うと、にっこり微笑んだ。
「まあまて、ロック君」
 と卓也は冷やかし半分でそう言った。
「言葉とそれ自体、っていうので思いだしたよ。キミは経験論者だったんだな。イデアをアイデアに変えちまったような。でさ、ちょっと見て欲しいん
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だ」
 そう言うと卓也はダンボールの中から文庫本を取り出した。
「ここ。
 ちょっと読んでくれ。いいか、アリストテレスは恐怖を定義しなかったらしい。でも、ジョイスはスティーヴンにそれをさせている。でもな、オレにはどうしてもそれが正しいとは思えないんだ」
 純は渡された本を読んでみた。
 
  恐怖というのは人間の苦しみのなかで、厳粛なものや変わらないものにぶつかったとき、精神を引き留めておき、それを密かな原因に結び付ける感情なのだ
 
 純は何度も繰り返して読んだ。そのうち、彩子が純にくっついて来て、
「あたしにも見せて」と言った。
 彩子の赤い髪が頬に触れて、なんだか甘い香りがした。純はびっくりして彩子に本を手渡すと、
「飲みすぎだよ」
 と言って距離をとった。
「ヤッコ、撃沈」
 と卓也はからかって、それから、
「どうよ」と純に訊ねた。
「精神を引き留めるっていうのと密かな原因っての
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が気になる」
「うん、その辺は説明があった。静的な感情だって言うんだ」
「でも、これは自分よりも大きな存在のことでしょ。今の幽霊の話に出た恐怖とはちょっと違うみたいだ」
「厳粛なものっていうのがいかにもキリスト教的な考え方じゃないのか」
 と山口が言ったので見るといつの間にか彩子から本を奪って読んでいた。
「そうか。厳粛なものも、変わらないって意味があるんだ。じゃ、この恐怖っていうのはキリスト教的な恐怖なのか」
 と卓也は言った。
「いや、単純に意味の違いもあるだろ。多分、英語のterrorと日本語の恐怖は言葉の意味の範囲が違う。それが一番の問題だと思うな、オレは」
 山口は、本を閉じて卓也に渡すと、
「ダン。でいいか?」と言って笑った。
「さっすがヤマさん」
 卓也は本を受け取ると、元のダンボールに押し込んだ。
 純は飲みすぎたせいか、目がとろんとしてきていて、ものを考えるのが億劫になっていた。
「お、彩子寝ちゃったよ」
 山口は静かに言った。見ると、テーブルに倒れこ
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むようにして寝ていた。卓也はため息をついて、
「しょうがねえな。今日は泊めてやるか。ヤマさんはどうする?」と山口に訊いた。
「オレは帰るよ。歩いて帰れるしな」
「そ。純はどうする」
「僕?」
 と純は驚いて聞き返した。
「帰るんならそろそろ電車なくなるぞ」
 と卓也は時計を見て言った。確かに、今帰らなければ終電には間に合わないと思った。
「いいじゃん。泊まってけば。
 始発で帰れば。オレも残ってやるよ」
 山口がそう言ってくれたので、純は心強かった。
「じゃ、そうしようかな。間に合わなかったらバカだし」
 それでみんなここに残ることになり、それじゃあ、ということで端に布団を敷いて、そこに彩子を抱えて運ぶと改めて三人でテーブルを囲んだ。
「ヤッコ寝てるからな、静かに話さないと」
 卓也はそう言って二人に目配せをした。
「彩子は、純に気があるみたいだな」
 と山口が言うと、
「やっぱり。いつもの態度と全然違ってたもんな。ヤッコって、よく分からないやつだよ」
 と卓也は不思議そうに言った。しかし、当の本人は笑って、
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「まさか。考えすぎだよ」
 と否定したものの、これまでの態度を思いだすとそう言い切れない部分もあった。
「いいじゃん。
 二人と付き合えば」
 卓也は楽しそうに言った。すると、
「なんだ、彼女いたのか」
 と山口は少し残念そうに言った。
「純はそういう器用な真似ができないんだよな」
 卓也はそう言うと眠っている彩子を見た。
 彩子は静かに寝息を立てていて、アルコールで紅くなった顔は思わず抱きしめたくなるほどきれいだった。
「こいつも、黙ってればかわいいのにな」
 卓也は残念そうにつぶやいた。
「そんなことないぞ」
 と、山口は笑って言った。
「彩子はかわいいと思うよ。
 性格だって、はっきりしてていいよ。オレは好きだな」
 山口の言った「好き」はとてもさっぱりしていて、同姓の「好き」と同じ響きを持っていた。
「じゃ、ヤマさんは男女の友情が成立するって考えるタイプなの?」
 と純が訊ねると、
「もちろん」と即答した。
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「やっぱりヤマさんは大人だよ、紳士。ジェントルマンだ。
 オレなんか、高校のときはさ、やることしか考えてなかったもんな」
 と言って卓也は悪戯っぽく笑った。
「オレだってそうだよ。高校のときはそうだった」
 と山口は言った。純はそれに対して何も言えずにただ曖昧に笑っていた。
「不思議なんだよな。
 オレさ。ふたつの中学に行ったんだよ。転校したからさ。でも、雰囲気とかそんな変わんないんだ。みんなこそこそ付き合っててさ。それでもうわさは出るだろ。あいつら付き合ってんだってよ、とか。中学ってそんな感じだったんだ。でも、高校に入ったらとんでもない。みんな普通に一緒にいるし、隠すこともない。堂々としてるよ。変じゃないか」
「なにが」
 と山口は不思議そうに訊ねた。
「だから、この違い。だって、何なんだ。何ヶ月か違うだけだろ。それなのに、この変化は何なんだ」
 卓也はそう言うとグラスの残りをすっかり飲んで、それで落ち着いたのか、ふう、と一息ついて手酌を始めた。
「絶対的な年齢の違いかなあ」
 と、純はぽつりと言った。
「だって、底辺が十二歳か十五歳かだと、ずいぶん
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違うよ。だから、そういう底辺からの年齢の環境っていうか雰囲気っていうか、そういう部分で違うから、態度まで変わってくるんじゃないのかな」
「なるほど。属性としての社会性か」
 と卓也はつぶやいた。
「うん、そうかもしれない。だって、いくらなんでも中一でコンドームは持ってないぜ。中三なら持ってるかもしれないけどな」
 と言って山口はぷっと吹きだした。それを見て、きっと自分は持ってたんだろうな、と純は思った。
「コンドーム。高校のときは持ってたな。オレ、財布に入れてたもん」
「だろ」
 と言って卓也と山口は笑顔で握手した。
「純は? やっぱ持ってた?」
 と山口が訊ねたので、純は仕方なく、
「まあ、一応」と答えた。
 卓也と山口はできる限り笑いを抑えていたが、
「由紀なんか、ああ、地元の彼女由紀子っていうんだけど、自分でも持ってたぜ。コンドーム」
 と卓也が言うと、二人はこらえきれずにゲラゲラ笑いだしてしまった。
「ヤッコが起きるよ」
 と純は彩子を見ながら、はらはらして言った。
「分かってる、分かってるよ」
 と卓也は言うものの、止まらないらしく苦しそう
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に顔を歪めていた。
 男ばかりが集まると、いつもこういう話になるのはなぜだろう、いつからこうなったんだろう、と純はぼんやり考えていた。
 興味がないわけではない。嫌いなわけでもない。ただ、そればかりの話で終わってしまうことが多すぎて、消化不良になっているような感じだった。
 純は、彩子が起きてしまうんじゃないかと、眠っている彩子の様子を半ば祈るような気持ちで見守っていた。二人がようやく落ち着いて、静かになってくると純もほっとして、起こさなくてよかった、と思った。
 酒がなくなったので眠気覚ましに珈琲を飲むことにして、カップを探しても二つしかなかったので、卓也は洗面台の歯磨き用のプラスチック製のマグカップを持ってきた。
「それは絶対にヤだな」
 と山口は露骨に嫌な顔をした。
「いいよ。オレが使うから」
 と卓也はすました顔で言うと、インスタント珈琲を入れた。
 さすがにもう疲れたのか、みんな黙って珈琲を飲んでいた。互いの珈琲を啜る音が聞こえてしまうほど静かで、さっきまで彩子が起きてしまうんじゃないかと思えるほど騒がしかったのが嘘のようだった。
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 急に静かになったので、異変を察知したのか、彩子が目を覚まして、自分が布団の上にいることが不思議なようで、
「あれ、なんでぇ?」と言った。
 三人は黙ってその様子を眺めていたが、
「寝ちゃったから。そっち連れてった」
 と卓也が言った。
「そっか。ありがと」
 彩子はまだ寝ぼけているのか、視点が定まらないまま卓也のほうを見て言った。
「珈琲飲むか」
 と山口が訊ねると、
「うん、飲む」
 と言ってテーブルまで戻ってきて、純の隣に座った。卓也は彩子の珈琲を入れようとしたが、カップがなかったので仕方なく、お椀に入れて持っていった。
「味噌汁みたい」
 と彩子は笑っていたが、珍しく文句も言わずにそのまま飲んでいた。まだ寝ぼけていて、文句を言う気にもならなかったと言うのが本音らしかった。
「もうすぐ始発来るね。
 顔洗っていい?」
 と彩子は許可をもらうというより自分の行動の宣言のような言い方で、言うのと同時にもう立ち上がっていた。
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「タオル後ろな」
 卓也も別に気にならない様子で、そう言った。
「純はどうする。朝飯食ってくか」
 山口は純に訊いた。
「いい。お腹空いてないし。このまま帰るよ」
 と純が言うと、
「じゃあ、駅まで一緒にいこ。
 ね、そうしよう」
 と彩子が洗面所から叫んだ。純は山口の顔を見た。すると、山口は微笑んでウインクをしたので、ちょっとためらったが、断る理由もないので、
「うん、いいよ」と言った。
 それを聞いた卓也は純のそばに行き、
「しっかりな」
 と囁いて腕を突き出し、ぎゅっと力を込めた。純は慌てて、
「違うよ」
 と囁き返した。そこへ彩子が戻ってきて、
「なあに、こそこそと。男らしくないぞ」
 と言って笑った。純は曖昧に笑って、
「なんでもないよ」と言って立ち上がった。
 そして、純と彩子が部屋から出て行くのを卓也は見送りに行って、何か話しているのを山口はその場に残ってぼんやり聞いていた。
「今日はバイト、あるのか」
 卓也が戻ってくると、山口は訊ねた。
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「ないよ。あとは寝るだけ」
 と言って卓也は欠伸をした。
「お前、あの二人どう思う」
「純とヤッコのこと?
 そうだな。
 純は、浮気とか絶対しないタイプだからな。ヤッコの空振りで終わるとみた」
 すると山口は笑って、
「そうか?
 オレは、そう思わないな。
 なぜなら、あいつは男だからだ」
 と意味深なことを言って卓也を見た。
「まさかぁ」
 と卓也は大げさに否定した。
 純は彩子と並んで歩いて、駅に向かっていた。神社からは、不気味なばさばさいう音が聞こえていて、カラスが起き始めたのだろうか、と思った。
「嫌だなあ、早く行こ」
 彩子は小柄な身体をさらに小さくするように身を縮めて、半ば早足で先に進みたがった。そのしぐさがさっきまでの彩子のイメージと全く違っていて、純はそのギャップがかわいいと思った。
「彩…ヤッコって、結構怖がり?」
 純はまだ言い慣れない様子だった。彩子は、あはは、と短く笑って、
「女の子だもん」
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 と、冷静に考えると答えになっていないことを言った。
 にこにこ笑いながら隣を歩く彩子は、高校の頃に飯田が付き合っていたエリちゃんと雰囲気が似ていると思った。エリちゃんのことを思いだすと、純はやっぱり一緒に行った海のことを思いだしてしまって、そうするとその場にいた美紀のことも当然浮かんできて、ちょっとした罪悪感を感じていた。
 日の入り前なので外はまだ暗く、時折走っている車もライトを点灯していたが、大気はもうすっかり朝の気配を漂わせていて、部屋の中ではずいぶん眠い気がしていたが、歩いていると目が覚めてきた。
「純くんは実家だよね」
 と彩子は訊ねた。
「うん、そうだよ。…実家?」
「あたし? うん。
 一人暮らしっていいよねー」
 と、彩子はうらやましそうに言った。
「一人暮らししたいんだ」
「もちろん、したいよぉ。
 あーあ、気楽な学生生活。ずっと憧れだったのにな」
 彩子はため息を漏らした。純は笑って聞いていた。起きてすぐに、こういう高いテンションを維持していられる彩子のような、明るい娘と二人きりで話すことは初めてだったので、正直戸惑っていた。
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「ね、昔の卓也ってどうだった、今とおんなじ感じ?」
 と彩子は訊ねた。
「うん、あんまり変わってないと思う。
 昔から絵は描いてたな。放課後、一緒に描いたこともあったんだよね」
 純はそう言うと、何か思いだしたのか、ちょっと遠くを見るような目線で微笑んだ。
「純くんも絵、描くんだ」
 彩子はそれが気になったらしく、
「見たいなァ」
 とちょっと甘えた声を出した。
「そんな。
 専門に勉強してる人に見せられるわけないよ。恥ずかしくて見せられないって」
 純は絶対に不可能だ、と言わんばかりに手を振って拒否したが、
「えー。そんなことないよ、ねッ」
 と彩子は食いついて離さない。それで仕方なく、
「うーん、じゃ、今度。機会があったらね」
 と言ってしまった。彩子はうれしそうに、
「やった。
 ね、今度デートしよ」と言って純の腕を掴んだ。すると純は慌てて離れると、
「ダメだよ。これでも一応、彼女いるんだ」
 とそればかりはさすがにはっきりダメだと言っ
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た。彩子は一瞬真顔に戻ったが、またすぐににこにこ笑い始めて、
「だって、デートするだけでしょ。
 平気だよ、それくらいじゃ普通浮気って言わないから」
 と言った。純は、この場合の普通、というのは一体どこの『普通』なのだろうか、と考えた。一般的、という意味の普通と、この場合の普通は絶対に意味が違っていて、こういう状況での問題は当事者同士、つまり純と美紀二人の問題と、二人それぞれと彩子、という複雑な意味を持っていて、そう考えると彩子にとっては普通でも純と美紀が普通と思っていなかったらそれは普通ではなくて、浮気だと言えてしまう。純自身は、二人で会って、話したり買い物に行ったりする程度のことであれば、特に問題はないと思っていた。しかし、美紀はどう思うのだろう。二人で会うという時点で、もうそれは浮気であると判断するのだろうか。
 純は、この場で約束することはできないと思い、
「ちょっと、考えさせて」と言うに留めた。
「じゃ、電話してね。番号教えるから。
 あたしも聞いていい?」
 と彩子はバッグから手帳を取り出すと純に目で合図をした。
 純は電話番号を二回繰り返した。彩子は手帳をしまうと、
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「えへへ」と悪戯っぽく笑った。
 彩子の時折見せるそういうしぐさが、美紀と全然違っていて、純は新鮮な感じがした。それと同時に、今まで自分が感じていた『女の子』というイメージは、美紀個人のものだったんだということが分かって、少なからず純はショックを受けていた。そして、そういうことを理解してしまったことによって、純はもっと多くの女の子を知ってみたいという単純な好奇心を持ち始めていた。しかし、それはあまりに危険な好奇心でもあった。
 二人はそうやって話しながら、しばらく歩いていると駅に着いた。
「もう着いちゃった」
 と彩子はちょっと愚痴っぽく言って、それから、
「途中までは一緒だよね」
 と言うと時刻表を見て、
「あと十分か、いいタイミングだねぇ」
 と彩子は純に目線を送った。
 ホームのベンチで電車を待っている間、純は彩子が好きになってしまったような、そんな錯覚を覚えていた。
 事実、純は彩子の肌に触れたいという衝動に襲われていたし、もっとたくさんのことを知りたい、話したいとも思い、また彩子がとてもいとおしく感じられた。
 自分は、彩子が好きなのだろうか、と思ってみて
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も、実際のところよく分からなかった。そして、分からないから余計に不安だった。おそらく、それは二人だけの時間を共有したことによって生まれた連帯感と、彩子の気持ちが少なからず自分に向いているという、ある意味打算的な思惟が作用しているのだろうが、純にはまだそこまでは考えられなかった。
 ただ、このままではまずい、という危機感は感じていて、早く電車が来て欲しいと、切実に願った。
 逆に、彩子にとっては最大のチャンスなわけで、彩子自身もそれを理解していて、
「ちょっと寒い」
 と言って純の腕にしがみついた。彩子の赤い頭が純の首の辺りにきて、先ほど卓也の部屋で感じたのと同じ甘い香りがしたので、純は胸がどきどきした。
 きっと、傍から見れば恋人同士に見えるんだろうな、と純は思った。しかし、そう思うことが不思議とうれしい気持ちになっていることに、純は動揺した。
 こうしてぴったりくっついていると、なぜか口が重くなってしまい、そのままじっとしていた。頭の中では、様々な思いが駆け巡り、特に美紀への悔悟が大きかった。
 そのうち、電車が近づいたことが分かると、純はほっとして、
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「電車きた」
 と言って彩子を離すと、彩子は電車を見て、
「もう、きたのぉ」
 と文句を言いながら立ち上がると、純と一緒にホームの白線まで歩いた。
 電車は当然だが空いていて、並んで座ると彩子は今までしていたのと同じように純の腕につかまった。乗換があるので、純は先に降りることになっていたのだが、もしそこで一緒に降りるなんて言いだしたらどうしよう、などとわけの分からないことをぼんやり考えていて、そういう空想を始めるといくらでもそういうありえないことは考えだされていった。
 駅が近付くと、純はどきどきした。電車が止まると、彩子は純の腕を離して、
「電話、待ってるからね」
 と言ってにっこり笑うと、
「バイバイ」と言って大きく手を開いて、顔の側で小さく振った。
「うん、じゃ、またね。
 気をつけて」
 と純も手を振って、降りると一旦振り返って彩子を見た。ちょっと離れてみると、彩子がどれだけ目立つかが分かって、改めて驚いた。彩子は純を見つめていて、相変わらず手を振りながら微笑んでいた。
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 結局、純は電車が動き出すまでその場にいて、彩子を見つめていた。そして彩子が見えなくなると、一度曖昧に手を振ってから、歩きだした。
 そのあと、しばらく彩子との余韻に浸っていた純は、ふと我に返り、もしかして、自分はとんでもないことをしているのだろうか、と思って怖くなった。
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