五ここ数年一度も降らなかった雪が降ったのは、年が明けて、正月気分が抜け始めた頃だった。純は彩子と約束をしていたので、昼過ぎに家を出た。あれから、純と彩子は微妙な関係が続いていて、もちろん美紀にはそのことを全て話してあって、今日会うことも知らせていたので特に問題はなかったのだが、それでもやはり多少の後ろめたさが残っていた。何より、美紀自身の本心はどうなのか、実際のところ、純にはよく分からなかったのだった。美紀はいつでも、物分かりがよくて、何でも許してくれるし、いつでも純の味方で応援してくれるものの、もし自分だったら、と純は自分に置き換えて考えてみると、やはり多少無理しているのだろうな、と思えて仕方ないのだった。純は、美紀の本心を知りたかった。多少の愚痴や文句を言われたほうがましだと純は思った。そして、もしかしたらもう自分に対する興味が薄れているのだろうか、と邪推したりしてしまうのだった。 二人の待ち合わせは以前に乗換で別れた駅を使っていて、先頭の車両で乗り合わせることに決めていた。純は、待ち合わせている電車に彩子が乗っているのを確認して、電車に乗り込むと、挨拶代わりに、 「今日も荷物多いね」 - 168 -
と言って隣に座った。
彩子は、大学でカメラを習ってから写真に没頭していて、今日も純は半分荷物持ちとして同行するのだが、彩子は東京で見る初めての雪にはしゃいでいて、その様子を見ていると、純は何となく恋人気分になってくるから不思議だった。 「今日さー、海行こうよ、海」 彩子は唐突にそう言った。 「だって、雪なのに。 それに海はちょっと遠いんじゃないの」 純は驚いてそう言ったが、彩子はもうすでに行く気になっていて、どういう写真を撮るか、あれこれ考えているらしかった。 結局、海水浴場のような浜辺に行くのは諦めて、海辺の公園に行くことにした。公園に着くと、潮の香りと波の音がとても気持ちよかったので、やっぱり来て良かったと純は思った。 「ね、三脚出して」 彩子はもうすでに自慢のライカを構えていて、ファインダー越しに景色を眺めていた。純は言われるままに三脚を取り出して、彩子の前に置いた。 こうなると、もう彩子はひとりの世界に入ってしまって、純は彩子が撮り終わるまでその場で詩を書いたり、景色を眺めたりしていた。 カメラを持っている彩子は、さすがにさまになっていて、とても輝いて見えた。人のいない公園は新 - 169 -
雪が全面に残っていて、立つ位置を変えたり、歩く度に、サクサクと雪を踏む心地良い音がした。
彩子は自分の行動に迷いがない。だから、カメラを構えてから、ピント合わせ、そしてシャッターを押すまでの一連の動作が、とても速くリズミカルで、見ていて気持ちが良かった。特に今日は、雪を踏むサクサクという音も加わって、いつになく気持ちの良い音が響き渡っていた。 彩子の存在は、純に大きな影響を与えていて、一緒にいて楽しかったし、彩子の写真に感化されて新しい詩も書けるようになった。 二人の間には、写真を通じて奇妙な友情が芽生え始めていて、親友のようでもあり、恋人のようでもあり、また競争相手のようでもあった。 「ちょっと、次のフィルム取ってよー」 と彩子が手を出して合図をしたので、純はバッグからフィルムの入った袋を取り出した。 「いくつ」 と純は袋の中を覗きながら訊ねた。 「四百」 彩子は純の側まで歩いてきていて、カメラのつまみをぐるぐる回してフィルムを巻いていた。純は、その様子を眺めていて、ふたを開けて取り出すのを待って、フィルムを渡すと、同時に彩子から撮り終わったフィルムを受け取って同じ袋に入れた。 「いいの撮れた?」 - 170 -
と純は訊いた。彩子はフィルムをセットしながら、
「うーん、そうねぇ、」 と考えているというよりも作業の邪魔にならないように時間を稼ぐために言ったというような感じでそう言うと、二回空打ちして作業が終わってから、 「雪って初めてだから。 分かんない」と答えた。 「初めてって?」 「あ、こっちでは、ってこと。 ね、雪だるま作ろっか」 彩子はそう言うと木の下に溜まっている雪を丸め始めて、ころころ転がし始めた。 純もそれを真似て、隣の木の下に行き、雪を丸め始めた。二人は、お互いの様子を見て、競争を始めた。 雪の量には限界があるから、土がつかないようにするとどうしても自分の頭くらいにしかならなかったので、彩子は形を作り始めた。 「ね、見て見てー」 と彩子が言うので見に行くと、小さな白鳥が出来上がっていた。首のラインが本物そっくりで、緩やかなS字を描いていた。それが、白鳥らしい気品を持っていて、純は素直に感心した。 「おっ。すごいすごい」 「純くんはなんか作った?」 - 171 -
「いや、雪だるまって言ってたから。
まだ雪玉だよ」 純はそう言うとなにか作ろうと思って、自分の作った雪玉を加工し始めた。その間も、彩子のシャッターを切る音が聞こえていたので、どうやら雪の白鳥を撮っているらしかった。 純は、雪玉を触りながら、彩子の撮る写真について考えていた。 不思議なことに、彩子の写真には審美がない。たとえ、道端のタイヤや家具などの不法廃棄物であっても、彩子はまるで現代アートの芸術作品のようにしてしまう。彩子の言葉を借りると、それは『呼ぶ』のだそうだ。 その写真を見たとき、彩子は笑いながら言った。 「だって、ここから撮ってくれー、って言ってるんだもん」 それは、詩を書くことと似ている、と純は思って、そのときになんとなく親近感を覚えたのを覚えていた。多分、その頃からだろうか、と思い返してみると、そうかもしれないし、そうではないかもしれなかった。 人に対して好意を持ったり、悪意を持ったりする場合、それはある日突然起こるという、突発的なものではなくて、日々その人との接点の中にある細かい賛同や反感、関心や感謝、落胆など、本当にたくさんの行動の結果として、まるでコップの水が臨界 - 172 -
点を超えてこぼれてしまうように引き起こされるのだけれど、その瞬間を自覚することは少ない。感情は、まるでアメーバが移動するように、滑らかに、ゆっくりと変わっていく。だから、気が付くと好きになっていた、とか、なんか嫌いになった、とか曖昧な表現になる。これとは逆に、感情の反転はすっきりしていて、コップを逆さにするだけだから、その瞬間がはっきりしている。
純は、自分が彩子を恋愛対象としてではなく、友人として見ているのは、きっとそういう親近感の集まった結果なんだろうな、と思った。 やがて、彩子は海が一望できる展望台というか、ただ単に余った土を置いていったというような感じのこんもりした山の上から、海を眺めていた。しばらくじっと海を見ていたが、そのうち、 「風が冷たい。寒ーい」 と言って戻ってきた。純は、もう少しで雪細工が完成するところだったので、 「出来たよ」 と言って手招きをした。 「出来たァ? あー。かわいい、猫だ」 と言って彩子は猫の鳴きまねをした。 「あの、熊なんですけど」 がっかりした様子で純は言うと、いろいろな角度から眺めてみて、そうすると確かに猫にも見えると - 173 -
思った。
「猫と熊って、意外と似てるんじゃないの」 彩子はそう言うと腕組みをして、 「熊って、猫科なの? 熊科? 熊科ってあったっけ」 と訊ねた。純はそういう分類について考えたことはなかったので、 「分からないけど、特徴は一緒だよね。顔も似てるし。じゃあ、熊とライオンは仲間ってことになるんじゃないの」 それには彩子も、アハハ、と笑って、 「そんなわけないよー。 どっかで分かれてるはずでしょ。一番上が猫だとして、そこから、こう」と両手の指を合わせて三角形を作って見せて、 「二つに分かれて、よく分かんないけどライオン科と熊科みたいに。 絶対違うって」と言った。 彩子の言う『科』は『達』と同じ意味を持っていて、英語の名詞にSをつけて複数形にするのと同じ感覚なのだろう、と純は思った。そうすると、人間は『人間科』というのだろうか、と考えると、純は吹きだしてしまった。 「うん、まあ、そうやって何でも『科』をつけるのはおかしいって。 - 174 -
だいたい、科とか目とか、よく分からないから話してても結論でないよ」
と純が言うと、彩子は純をつついて、 「あんたが熊もどきを作るからでしょッ」 とふざけて言うので純はため息をついて、 「そうでしたね」と言った。 彩子の言葉を聞いて、純がため息をついていた頃、美紀は瀬川と会っていた。二人は喫茶店で待ち合わせて、珈琲を飲んでいた。 「ごめんね。 急に呼び出して」 美紀はそう言って顔の前で手を合わせた。瀬川は笑って、 「別にいいよ、どうせ暇人だし」 と言って、それからすぐ真顔に戻って、 「話って、純くんのことでしょ」 と訊いた。美紀は見透かされて動揺したのか、え、と驚いたような声を出して、 「やっぱり、分かる?」 と言ってちょっと紅くなった。 「私、卓也くんから聞いてるから。ぜーんぶ」と、瀬川は両手を開いて見せて、 「知ってるよ」と言った。 すると、美紀はつい、アハッ、と短く笑って、 「そうだったね。みんなつながってるんだよね」 - 175 -
としみじみ言った。それから、
「話って、もう分かってると思うけど、彩子さんのことなんだ。って、私は会ったことないからよく分かってないんだけどね、ほんとは。 でね。実は、今日も会ってるの。 ううん、だからってそれが嫌とか、嫉妬するとかじゃないの。純くんはちゃんと全部話してくれるし、彩子さんは友達だってはっきり言ってくれてるから。 ただ、なんていうか、問題は、私の気持ち。信じてるんだけど、でも完全に信じきれてない自分がいるの。気が付くと、束縛したがってる自分がいて、それがすごく怖い。他の人と一緒にいて欲しくない。でもそんなこと、言えないから。負担になりたくないから」 と言って美紀は、ふう、とため息を漏らした。 瀬川は思い切り背もたれに寄りかかって、 「美紀ちゃんは、優等生だね」 と静かに言って、それから、 「それだと、純くん、辛いんじゃないかな」と言った。 「優等生」 と美紀は繰り返して、考え込んだ。 「だからァ」 と瀬川は優しく言って、 「もうずっと一緒にいるわけだし、そうやって取り - 176 -
繕っていい顔ばっかりしていてもお互い息が詰まっちゃうってこと。今私に言ったみたいに、そう言ってみればいいんだよ。
純くんって、周りをよく見てるでしょ、だから、きっと口に出さなくてもそういう、美紀ちゃんの思ってることって分かってると思うんだ。美紀ちゃんが無理してるって分かってるから、余計辛いんじゃないのかなあ。純くんも、あんまりそうやってズバッと言えないでしょ? 優しいから。 彩子ちゃんってね、すっごく分かりやすいの。もう、考える前に突っ走っちゃうタイプなのね。純くんも、きっと一緒にいて楽なんじゃないかなぁ。そんな気がするの」 と言って美紀をじっと見つめた。 「そうだよね、私が変わらなくちゃいけないんだよね」 美紀はぼんやり独り言のように言って、うつむいた。 「でも、やっぱり、ちょっと怖いな、自分を曝け出すのって。 私、言ったことないから、そういうこと。でも、多分それって純くんじゃなくて、自分を守りたいのよね。そっか、私、自分を守りたいんだ」 瀬川は優しく微笑んだ。 「がんばりなよ。 応援してるから。絶対うまくいくよ、大丈夫、 - 177 -
ね?」
「ありがとう」 と美紀はうれしそうに言った。 瀬川に話したことで、美紀はずいぶん楽になった気がした。そしてこれからの自分のあり方も一緒に考えてくれて、このことには心から感謝していた。 瀬川は静かに珈琲を飲んで、ちょっと外の様子を眺めてから、 「私ね」と話し始めた。 「高三のとき、卓也くんと初めて会ったの。卓也くんの彼女、由紀ちゃんって言うんだけどね。中学からの後輩で、仲も良かったのね」 美紀はじっと聞いていた。瀬川はいろいろ思いだしながら、そして言葉を選びながら、卓也との出来事を全て話した。詩を書いてもらったこと。予備校を休んで家に行ったこと。そこまで話すと、瀬川は一息入れて、美紀を見つめた。 「びっくり」 と美紀は呆然と言うと、 「その、彼女はそのこと?」 と訊ねた。すると、瀬川は笑って、 「知らないでしょ、きっと」 と言った。その言い方があまりに平然としていたので、美紀は何も言えなくなってしまった。 「でもね」 と瀬川は言った。 - 178 -
「私は、そのときに好きだった人の影を追い払うことができたの。不思議だよね、その人と重ねて見てたのにね。
だから、卓也くんには『事故』だって言ったの。それで私たちの関係はおしまい。で、今でも私たち三人の関係はずっと変わってないし、卓也くんもそれから何も言わないわ。彼はああ見えて、実はすごく愛に飢えてるんじゃないかって思うのよね。家庭も複雑でしょ、多分、怖がってるんだと思うの。だから余計、そういう私の苦しみも分かってくれたのかなぁ、って。そう思うんだ。 きっと、自分から別れ話はできない人ね」 「そうなんだ」 と、美紀は今の話を自分たちに置き換えて想像しながら、呟くように言った。 「純くんも、あなたが一番大切だっていうことは分かってるはずだから、どーんと構えて待ってればいいのよ」 瀬川はそう言うと、ちょっと身を乗り出して、 「ね、ケーキ食べよっか」 と悪戯っぽく言った。美紀はおどけた様子で、 「賛成」 と言って手を挙げると、二人は顔を見合わせて、アハハ、と笑った。 翌日、純は美紀と一緒に講義を受けて、帰り際に - 179 -
歩いていると、久しぶりに飯田と会った。
「おい、天野」 と飯田が先に気付いて、声をかけてきた。 「あっ、なんだよ。久しぶりじゃん」 純は久々の再会を喜んで、うれしそうに笑った。 「飯田くん、元気?」 と美紀も挨拶して、 「法学部って大変でしょ」 と言った。飯田は照れたように頭を掻いて、 「もう慣れたよ。 っていうか、思ってたほどじゃないかも」 と答えた。 「ちょっと寄ってくか」 と純が誘うと、飯田は純の肩を掴んで、 「もっちろん。 おごってくれるんだろ?」 と言って歩きだした。 近くの喫茶店は学生でいっぱいなので少し歩いた先のカフェに入った。純が三人分買っている間に美紀と飯田はテーブルについた。 「相変わらずなの?」 と美紀は訊いた。 「うん、まあまあかな。 キミたちも長いね。いつ見ても仲良しでうらやましいよ」 「また言ってる」 - 180 -
美紀はちょっと笑って見せて、それから、
「純くんとはずっと会ってなかったの?」 とまた訊いた。 「そうだなあ」 と飯田が言ったところで純が来て、 「お待たせ」 と言って珈琲を置いた。 「天野、どれくらいぶりだっけ」 飯田は美紀の質問を純に回した。 「さあ。 結構会ってなかったんじゃないかな。 どれくらいだ? 二ヶ月ぶり? それくらいじゃないの」 純もよく分かっていないようで、とても曖昧に答えた。純は、どんなに考えても飯田とそのときの情景が結び付いて思いだせなかった。それは、お互いの日常に密接に結び付いていた高校時代からの記憶も引きずっているからで、最近は校内で会っても、ちょっと立ち話をする程度で特に一緒に何をするわけでもなく、ほとんどが近況とか挨拶で終わってしまっていて、だからこそいつ会ったとか、どんな話をしたかとか、そういう細かい部分が欠落していて、いつか会った、とか何か話した、とか、そういう大筋のところしか覚えていないのだった。 「なんで覚えてないの」 - 181 -
と美紀は言って、ちょっと呆れた顔をした。
「最近、まともに会ってなかったしな」 と飯田は純に目配せをして、 「オレ、学生のうちに司法試験受かっておきたいんだよね。だから、あんまり遊んでられなくてな。あ、でも誘ってくれたらいつでも行くよ。付き合い長いしな、大歓迎」と言った。 純は、飯田のそういう裏表のないところが好きだったが、今はもうなんだか見えない壁のようなものを感じていた。飯田は、もう完全に自分の道を見つけていて、目標に向かってがんばっている。それなのに、自分はいつになっても中途半端で、このまま何も見つからずに卒業してしまうのではないか、というかすかな不安を感じていたのだった。 「飯田くんは、弁護士目指してるの? すごいね」 美紀は素直に感心していた。 「目指してるだけだよ。なれるか分からん」 と飯田は謙遜気味に言った。 「目標があるだけでも羨ましいよ」 「なに言ってんの。 お前にはお前の道があるじゃん」 飯田はそう言うと、純を見て、 「詩人になるんだろ」 と訊ねた。純は大きく首を振って、 「そうじゃない」と言った。 - 182 -
「僕たちはもう十九だよ。高校生じゃない。夢だけじゃ生きていけないってことは分かってるんだ。
あと一年だよ? あと一年で、僕たちは成人するんだ。社会的に、ひとりの人間として見られる年齢なんだ。それなのに、僕はいつまでもそんな子供じみたことを言っていていいんだろうか。 キミだって、ヤ、他の人だって」と、純はヤッコ、と言いかけて修正した。 「自分の進路を考えてる。 真剣に考えてるよ。でも僕にはそういう道がない。何がしたいか、ほんとに分からないんだ」 美紀と飯田は何度も頷いて聞いていた。一瞬の沈黙ののち、 「そんなことないよ」 と美紀が言うと、 「うん、そうだ」 と飯田も同意した。 「ちゃんと考えてるよ。 純くん、考えてると思う。私なんか、そんなことも考えてないもの。ただ後期の単位どうしようとか、明日のバイトとか、そういうことばっかり。 無理することないよ。急に見つかるものでもないでしょ、飯田くんとは違うんだから。純くんは、これから探せばいいのよ、もちろん、私もね」 純は、美紀がそんなことを言うのはちょっと意外 - 183 -
だと思った。いつもなら、こういうとき、一緒に探そう、とかがんばろう、とか言うような気がしていたが、今日の美紀は何か余裕のようなものがあって、いつもと少し違う印象を受けた。だから、純はほっとして、
「ありがとう」 と素直に言えた。 「キミたちはほんとに仲が良いね」 飯田はまたそう言って、珈琲を飲んでいた。 「飯田くんは彼女いないの?」 「ええ、ええ、いませんよ、どうせ」 飯田はわざとヒステリックな言い方をして、それから今度は懇願するように、続けて言った。 「誰か紹介してよ。 特にこだわりはないからさあ。 でも今度は年上がいいなあ。ひとつかふたつ上くらい。で、かわいいよりきれいな感じ。それで…」 「いっぱいあるじゃん」 と純は笑いながら突っ込みを入れて、 「でもさ、一人いるよね」 と言って美紀を見た。 「え、ああ、えーっ、瀬川さんのこと? でも、うーん、どうかなあ」 美紀は昨日のことを思いだしていて、ちょっと複雑な気持ちだった。 「とりあえず、言ってみれば。 - 184 -
どうするかは本人の問題だし」
「それ賛成」 飯田はうれしそうに言った。それを見ると、美紀も頷いて、 「そうだね」と言った。 「決めるのは、瀬川さんだもんね。 私たちじゃない」 美紀はまるで自分に言い聞かせるようにそう言って、にっこり笑った。 そのあと、飯田は用事があるからと言って席を立つと、 「じゃ、またな」 と言って帰っていった。 純と美紀はしばらく飯田を見送っていたが、 「いいやつなのに、何で続かないんだろ」 と純がぽつりと言うと、 「いい人だから続かないんじゃないの」 と美紀が言い返したので純は美紀を見つめた。 「女の子は、独り占めしたいのよ。 飯田くんは誰にでも優しいからね。そういう優しいところが辛くなっちゃうんだと思うな」 純ははっとした。美紀は彩子のことを暗にほのめかして言っているような気がして、胸が痛かった。そして、やっぱり自分は美紀を傷付けているのかしら、と思うと、余計苦しかった。 「美紀」 - 185 -
と純は言って美紀をじっと見つめた。
「あのさ、ヤッコのことなんだけど」 と純が言いかけると、 「いいの」 と、美紀はさえぎった。 「分かってるから。信じてるから。 大切な友達なんでしょ。でもね」 と、そこで一旦言葉を止めてカップのふちに指で触れて、 「私のそばにいてね」 と言った。純はそれで胸がいっぱいになってしまって、 「いるよ」 とだけ言って、そっと美紀の手に触れた。 金曜日には恒例の批評会が行われて、卓也はいつものように自分の部屋で山口と彩子の二人を迎え、批評会のことを話していた。 「……でな、どうしても納得いかないんだよ」 山口は憤慨した様子で一気に喋って、それからビールを一気に飲み干した。 「ヤマさん、珍しくご立腹だね。 そんなに言われてなかったじゃん。オレなんかどうなの、って感じだよ。 ヤッコは、もう完全に写真なのか?」 と卓也は訊いた。 - 186 -
「そのつもり。
純くんにアシスタントしてもらってるしー」 と、彩子はにこにこ笑いながら言った。 「幸せいっぱいって感じだけどさ」 と卓也は愚痴っぽく言うと、 「ただの友達だろ。 純は彼女と別れるつもりないみたいだしな」 と忠告なのか嫌味なのかよく分からない言い方をした。 「いいの。 あたし、考えたんだけど。恋人未満、友達以上、っていうのかな。 こういうの、すごく居心地がいいんだよ。気を使わなくて済むしさ。一緒にいて楽しいから、そういう細かいことはどうでもいいんだぁ」 「彩子らしいな、そういうの」 山口はそう言って、 「で、卓也はどうなの」 と訊ねた。すると卓也はその意味を分かりかねて、 「なにが」 と逆に訊き返した。 「彼女だよ。地元の。続いてんの?」 「ああ、続いてるよ、当然でしょ。 年末来てたんだ。こっちに」 「えー。意外」 - 187 -
と相変わらず彩子は毒を吐いて、
「そういう話、ぜんっぜんしないよね。 ね、なんで?」 と不思議そうに訊ねた。 「話したって、面白くないだろ。だって、顔も知らないじゃん」 「そうだけどさー。言ってくれたって。ねぇ」 と、彩子は山口に同意を求めたが、 「別に」 と山口はあっさり否定した。そこでもうこの話は終わって、卓也はもうこれ以上この話に関わっていたくなかったので、ここで先ほど山口が言っていた批評会の絵について、卓也が感じた疑問を山口に訊くことにした。 「あのさ、話戻すけど。 さっき言った、ヤマさんの色の力ってなんなの」 「まだはっきりしてないんだけどな」 と山口は前置きをした上で、 「色って、見ていて元気になったり、怖くなったり、気分が良くなってきたり、そういうことってあるだろ。だから、そういう色をうまく使えば、言葉よりももっと深みのある感情表現ができるんじゃないかって考えたんだ」 と言って卓也と彩子を交互に見た。 「うん、ていうかさ。 感情表現、なの、それ」 - 188 -
卓也は腑に落ちないといった顔をしていたので、
「どういうこと?」 と山口は訊ねた。 「要するに、言語領域の外を描きたいわけでしょ、色っていうか、まあ色も大切だと思うけど、形も重要だと思うんだ。ってまあその辺はヤマさんも分かってるだろうけど。 でさ。この間、正月に由紀が来てたって言ったろ」 すると、そこで彩子が、 「由紀っていうんだぁ」 などと口を挟んだので、卓也も釣られて、 「あれ、言わなかったっけ。 そっか、ヤッコ寝てたんだ」 と言ってから元に戻った。 「で、その由紀が変なこと言うんだよ。 カラスの絵あるだろ、ヤマさんの後ろの。それ見て『円』ってなに、なんて訊くんだよ。オレもうびっくりしてさ。逆に訊いちゃったよ。円ってなに、ってさ。したら、その絵を指差してるじゃんか。思わず鳥居だよ、って突っ込み入れちゃったもん。 で、そのあとふと思ってさ。アラビア語とか見ても、文字とは思えないじゃん。それと同じで、二歳くらいの子供って、文字を絵とか、記号みたいに見てるんじゃないかって思ったんだ。そう思うとさ」 と、卓也は一旦そこで切って、ビールで咽を潤し - 189 -
て続けた。
「えーと、オレたちが普段文字として読んでるものって、二段階で変換されてるわけじゃん。最初、映像を文字に変換して、その文字を意味に変換する。そういうふうに、二段階に処理されてるんだよ。 たとえば、キャンバスに『恐怖』って文字だけを書くとするだろ。文字が読める人なら意味分かるよな。伝えたいこと、分かるよな。でも、読めない人には伝わらない。じゃあみんなに伝えるにはどうしたらいいか」 「分かった」 と彩子は手を挙げて、 「お化けの絵を描く」 と言った。卓也は笑っている山口に目で合図を送って、 「ヤッコ、ある意味キミは天才だ」 と言ってグラスを彩子のグラスに当てて、ひとりで乾杯した。 「でも、まあ、言いたいことは分かった」 と言って山口は頷いた。 「考え方としてはそういうことなんだよな。 だけど、お前は大切なことを忘れてる」 すると卓也は首を傾げたので、 「感情は、経験が作るんだ。個人的なものなんだよ。この間、自分でそう言ったろ」 と説明した。 - 190 -
「じゃ、ヤマさんが描きたいのは自分の、個人的な感情ってわけだ」
卓也は感心して頷いた。 「でも、それじゃ絶対に他人には理解できないわけでしょ」 と彩子が言うと、山口はあっさり、 「そうかもな」と言った。 「自己満足だよね」 彩子はそう言ってビールを飲むと、 「うまく言えないんだけどね。 そうやって、『自分だけ』っていう殻に入っちゃうの、まずいんじゃないかなあ。 自己満足と個性って違うでしょ。個性っていうのはさ。たとえば、ビー玉の中にひとつだけ大きいのが入ってたり、黄色いチューリップ畑の中に一本だけ赤いのが入ってたり。 そういうことじゃないのかなあ。だから、こういう場合は『恐怖』って誰もが分かるようなものじゃないといけないと思うんだよね。一言で『恐怖』って言っても、いろんなのがあるからね。だから、ヤマさんはちょっと明後日のほうを向いちゃってるのよ」 と言って、またさっきと同じようににこにこ笑っていた。 「彩子、お前ほんとに天才」 と、今度は山口が呆然とした表情のまま、グラス - 191 -
を彩子のグラスに当てて乾杯した。
「どうしたの、二人して。 おだてても何も出ないよ」 と言って、彩子は卓也と山口のいつもと違う態度に動揺した。 「な、ヤッコ。純呼ぼうぜ。電話してよ」 卓也はそう言うと、部屋の隅にある電話を取ろうと腕を伸ばした。 「えーっ。 いいよ、何でよ。あたし、今日は帰らないといけないんだからァ。入れ違いになるでしょ」 と、彩子はちょっと興奮気味に言った。 「何で、明日用事あんの?」 山口は意外そうな顔をした。 「ん、別に。 ただ、あの、何となく、ね」 と彩子は突然訊かれて動揺したのか、うまい返答を何も用意できずに、歯切れの悪いごまかし方をした。 「要するに、ここで会うのが恥ずかしいんだろ」 卓也がそう言うと、彩子は紅くなって否定した。 「あたし、そろそろ帰るね。 そういえば、明日バイトだったんだ」 そう言うと彩子は部屋を出て行った。卓也は、玄関まで見送って、戻ってくると山口を見て、肩をすくめた。 - 192 -
「ヤッコ、ちょっと変わったな。純の影響なのかな」
「不思議なやつだな、あの純ってやつは。 ああいう人間の周りって、どういうわけか人が集まるんだよな」 山口はしみじみ言った。卓也はため息をついて、微笑んだ。 「あいつは、太陽なんだ」と卓也は言った。 「自分が輝けば輝くほど、周りも輝かせることができる、太陽なんだ。でも純はそれに気付いていない。いや、だからこそ惹かれるのかもな」 そう言って、卓也は山口をじっと見た。山口は静かにビールを飲み、それから、 「それは分からんけど、興味はあるな。面白いよ、あいつ」と言った。 「ははっ、乾杯」 と言って卓也はグラスを山口のグラスに当てた。そして、部屋の隅に立てかけてある自分の絵の方に視線を送りながら、ゆっくりと喉に流し込んだ。何かを考えているような感じだった。山口はそんな卓也の様子をじっと見つめていた。僅かな時間だったが、とても静かで厳粛な、質の高い静寂が二人を包み込んでいた。やがて卓也は持っていたグラスを音を立てないように優しくテーブルに置きながら、重い口を静かに、ゆっくりと開いた。 「オレ、正直言って不安なんだよね。 - 193 -
ヤッコみたいに写真でいこうとも思わないし、ヤマさんみたいにうまくもない。
何て言うかさ。器用貧乏なのよね、オレってば。詩では純にかなわないし。何だろうね、何がいいんだろ」 山口は、卓也の弱音を初めて聞いた気がしたので、驚いた。 「そうでもないぞ。 オレ、お前の風景画好きだけどな。 透明水彩の風景画」 「風景画かあ。んー。 それもアリだな、いいかも」 卓也は何か思いついたらしく、うれしそうに笑いながらビールを飲んでいた。その様子がとても不思議だったので、 「なんだよ。 なに思いついたの、言えよ」 と山口は訊ねた。 「オレ、休学する」 「え」 と山口は驚いて卓也を見つめた。卓也は、とても静かな顔をしていたので、その様子からも決意が感じられた。 「それはいいけど、休学して何すんだよ」 「世界を見てくる。ヤマさんみたいにさ。 金無くなったら絵を描く。で、また進む。無謀か - 194 -
もしれないけど、やってみたい。だって、こんなこと今しかできないから」
「まあ、そりゃ自由だけどさ。 もうすぐ後期が終わるし、キリがいいっていえばそうだけどよ。まあ、お前の人生にオレが口を挟むのもあれだな」 山口は突然の卓也の決意に戸惑った。しかし、やはり経験者だけあって、山口は静かにグラスを卓也に向けると、 「じゃ、旅立ちに乾杯」と言った。 それから、卓也はアルバイト漬けの生活になり、いくつも掛け持ちして忙しい毎日を過ごしていた。卓也は山口に堅く口止めをしていて、その卓也の気持ちを汲んで山口も黙っていたから、まだ誰も休学のことは知らなかった。 純は、卓也と連絡が取れなくなったことが気がかりだったが、彩子からずっとアルバイトをしているんだと聞かされて、連絡が取れない理由が分かると安心した。 卓也から連絡が来たのは、もう四月になっていて、桜も満開の頃だった。 卓也が久しぶりに中学校を見たいと言うので、純は駅まで迎えに行き、待ち合わせた。 卓也は、駅前に立つなり、 「うほっ。懐かしいなー。 - 195 -
全然、変わってないじゃんか」
と興奮気味に言って、辺りを見回した。 「そうだね。 変わったといえば、交番が新しくなったくらいじゃないの」 卓也は、ふうん、と気のない返事をして、 「歩いて行ってみるか。散歩散歩」 と言うと歩き始めた。純は卓也と並んで、歩道を歩いていった。春のうららかな陽射しは気持ちよくて、今日は最高の花見日和だ、と純は思った。歩きながら、卓也はまるで観光客のように辺りをきょろきょろ見回していた。そして、何かを思い付いたのか、不意に口を開いた。 「街って変わらないな。 なんかさ、オレたちばっかり変わってくみたいな感じだなあ。 あと十年くらいしてもさ。きっとそれほど変わらなくて、オレたちが歩いてるこの道をオレたちの子供が歩いたりするんだろうな。 どんなこと考えるんだろ。 なあ、純。お前の親が、二十年前にここをこんなふうに歩いてたって想像できるか?」 「変なこと言うね」 純はそう言ったものの、自分の両親がこの場所を歩いている様子を想像してみた。それは、とても不思議な光景だった。純がこのとき感じたのは、自分 - 196 -
は親の過去を全く知らないということだった。二人は、どうやって出会ったんだろう。どんなことを話したんだろう。僕が産まれる前は、どんな生活だったんだろう。純はもう歩いている様子ではなくて、自分が存在する以前の家の様子を想像していた。そうやって若い両親を思うとき、彼らはいつも笑っていたような気がするのだった。ということは、彼らは幸せなんだろうか。純はそう考えると、いや、彼らじゃなくて、きっと僕自身なんだ、と思った。
そのとき、純は自分はどれほど両親に愛されているのか、ということが分かって、驚いた。 「ねえ、卓也は、親をどう思ってるの」 純は聞いてはいけないと思ったが、あえて聞いてみた。すると、意外にも卓也はあっさりしていて、 「親? 好きだよ」と答えた。しかし、そのあとで、 「オレには母親しかいないからな」 と言った。卓也は質問の意味が分かっていたはずで、それでもあえてそう言うということは、もう完全に卓也にとっては他人なんだろうか、と思ったが、もう言わないことにした。 国道との交差点で、歩道橋を渡っていると、卓也は突然足を止めて、 「これ見ろよ」 と純を呼んだ。 「なに」 - 197 -
純は卓也の指差しているところを見た。
「これ、オレの字」 そう言って卓也は落書きを指差していた。しかし、風雨に晒されたそれはもう読み取れないほど劣化していて、そこで純が、 「なんて書いたの」 と訊ねても、卓也は笑って、 「忘れた」と言った。それから、 「相合傘。ちっちゃい頃よく書いたろ。ハートの下に三角書いて、棒引くあれだよ。 いくつぐらいかな。小学生くらいだと思うけど。オレ、浅野のこと好きだったんだよね。家も向かいだろ、もうずっと一緒だったしな、まあ当然の結果と言えなくもないな」 「へえ。 でも、小学生か。そうだよね。 そのくらいってさ、まだ世界が小さいから、どうしても家の近所で人を好きになったりするんだよね。じゃあ、浅野さんは幼馴染で初恋の人ってことだ」 「あいつもそうだったよ。 だって、一緒に風呂入ってたんだぜ。幼稚園の頃は。いっつも一緒に遊んでたんだから。 いつからかなあ。 浅野、って呼ぶようになったの。ある日、突然名前じゃ呼べなくなったんだよな。小五か小六のとき - 198 -
か、いや中学に入ってからか。
忘れたな」 卓也は忘れたんじゃなくて、話したくなくてそう言ったんだろう、と純は何となく思った。人は一体、いくつくらいから異性を異性と意識し始めるんだろう。今の自分と比べても、中学生の頃はもっと異性に対して敏感だったような気がしたし、もっとずっと前、小学校に入ったばかりの頃には、あまり意識していなかった気がした。じゃあ、一体いつなんだろう、と考えてみても、分からなかった。 そうやって歩いていると、用水路が見えてきた。これに沿って歩いていけば、昔の卓也の家があり、その先に中学校があった。 「家の前は、通りたくないんだよなあ。 もう住んでないのは知ってるんだけどさ。空き地になってて草が生えててもヤだしなあ」 卓也は、かつて住んでいた自分の家があった場所の近くに来ると、そう言って下を向いてしまった。 だから、純はしばらく卓也の目になって、水路沿いを歩いていったが、さすがにまだ感覚で覚えているのか、家を過ぎて少し進んだところで顔を上げると、 「よし、過ぎたな」 と言って小さくガッツポーズをとった。そして、懐かしそうに周りを眺めて、 「オレの通学路、変わってねー」 - 199 -
と言ってまっすぐ前に見えている校舎をじっと見つめた。入学式の日はもう過ぎているはずで、そうするともう校内には生徒たちがいるはずだが、多分午前中で終わっているはずだから部活動をしている生徒しかいないだろう、と純は考えていて、それなら校内に入れるかも、と思ったが、校門の近くまで来ると、意外にも卓也は、
「ここまででいいよ。 中に入るのはちょっと、な。オレ、卒業生じゃないし」 と言ったので、二人は校門のそばで立ったまま、校舎を見上げた。この場所に、また二人で戻ってきた、ということが純にはとても信じられなくて、いろいろ思いだしていると胸が熱くなってきた。 「僕にとって、中学の放課後っていうのは特別だったんだよね」 純はそう言うと卓也を見つめた。 「あの頃は、ほんとよく残ってたよな。何するわけでもないのにな。 今思うと、あの頃のオレたちってさ。思い上がってたな」 と言って、苦笑した。それから、 「なんか、自分は特別だって気がしてた」 と言って純を見た。 「卓也は、今でもそうだよ」 純はそう言ったが卓也は首を振った。 - 200 -
「オレは、自分の限界を見てしまったよ。
大学って、すごいとこだよな。オレ、自分はそこそこ描けると思ってたのにさ。一日で鼻へし折られたよ」 卓也は笑っていた。その笑顔が、言っていることと全く違っていて、とても爽やかなものだったので純はなにか嫌な予感がした。そして、これと同じ予感を昔も感じたような気がする、と思った。ふと見た校庭では、陸上部がきれいに整列して走っていて、その奥のほうから野球部の球を打つ音が響いていた。 「それにしても、学校って変わんないな」 卓也はもう何度目か分からないくらいにそう言うと、 「純、オレさ。休学することにした」 と突然言ったので純はびっくりして、 「どうして」と訊ねた。 卓也はその場でうろうろ歩き始め、 「うーん。もっといろんなものが見たくなってさ。世界中の景色を見てこようと思って。 オレ、自分を試してみたいんだよ。ゼロの状態で自分に何できるか、試したいんだ」 「留学するってこと、ヤマさんみたいに?」 純はそう訊ねている間も、胸がどきどきしていた。 「留学じゃあないな。旅。 - 201 -
旅ってさ、世界の中で自分自身を確認する方法だと思うんだ。
オレは、オレの中の神に会いに行く。で、挨拶でもしてやるかな」 そこで、純が苦笑すると卓也も笑った。笑っていると、純は気がまぎれたのか、 「きみはいつも僕の予想を超えるね」 と言った。卓也は曖昧に頷いて、 「お前だって」 と言うと純の肩を叩いた。それから続けて、 「純は、詩を書くのやめるなよ。 いいか。帰ってきたとき、まとめて読むからな。ノート五冊分くらい用意しとけよ」 と言った。純はうれしそうに頷いて、 「ああ、そうする。送るから」 と言って微笑んだ。 「そろそろ戻るか。いつまでもここにいちゃ、怪しまれそうだもんな」 卓也がそう言ったので、そこから違う道を通って、駅の方向に戻ろうということになった。 「せっかくだから、桜見て行かない」 純がそう言うと、卓也はそれを思いだしたらしく、 「あの散歩道ね。なっつかしー。 もちろん、行こうぜ。うはー」 とうれしそうににこにこ笑いだした。 - 202 -
桜並木の遊歩道は遠回りになるが駅周辺まで続いていて、ぶらぶら歩きながら駅に向かうには丁度良かった。
そして、二人は桜の遊歩道を歩いた。すでに満開を過ぎていたが、それでも木の下には花見の人たちが大勢座り込み、季節からの贈り物にうっとりしていた。 「出発はもう決めたの? いつ頃とか」 純は周囲の桜を眺めながら、訊ねた。 「来週には行くよ。 韓国から入って。 中国抜けて、チベット行くだろ。 そんで、そのまま南下してミャンマーとかベトナムとかその辺に行く」 卓也も桜に見とれていた。純は一瞬ちらっと卓也の横顔を見て、あと一歩が届かない、と思った。 卓也は、いつも純の一歩手前にいた。何でも出来て、何でも知っている、そんな卓也にずっと憧れてきた。だから、純は必ず卓也が成長して帰ってくるのだと確信していた。しかし、自分が卓也に対して思っているものと卓也が自分に対して思っているものは、多分その大きさが全く違うのだろうと思った。だから、卓也はこうしてあっさり自分の前から離れて行けるのではないか。純は、時折はらはらと舞う桜を目で追いながら、そんなことをぼんやりと考えていた。 - 203 -
すると、突然、
「わあっ」 という歓声が起こったので、反射的に二人が振り向くと、大量の桜吹雪が空間を淡いピンクに染めていた。 「おおっ。 見ろよ、純。いい風吹いたなぁ」 純もその様子に見とれながら、うん、と言った。 「なあ。オレたちの新しい旅立ちにふさわしい風だ。 青春の、青い春風だよ」 卓也はそう言うとにっこり笑った。純は、卓也が『オレたち』と言ったことがなによりもうれしかった。それは少なくとも、卓也が自分を認めているという意思の現れで、そういう言葉を卓也から直接聞いたのは初めてのことだった。 桜並木を通り過ぎて楓や松の並木になると、もう人はいなくなっていて、その違いがあまりにも極端だった。純と卓也は誰もいないベンチに座って、今通ってきた桜並木を眺めた。歩いていたときはまだ点いていなかったのに、今はもう堤燈に明かりが点いていた。 「純は、イリアス読んだことあるか」 と卓也は突然訊ねた。 「イリアス? ああ。うん、読んだ。怒りんぼのアキレウスでし - 204 -
ょ」
卓也は、ぷっと吹きだして、 「怒りんぼかよ。いいな、それ。 あれさ、元々は口承なんだよな。信じられるか、一万行だぞ。原稿用紙だと、えーと」 と、卓也は計算を始めたが、 「まあいいや」と面倒くさくなって諦めて、続けた。 「とにかく、そういう長いのを頭の中だけでよく作れたなあ、ってことさ。ほんとに、感心するよ。 で、まあ言いたいのはそれじゃなくてさ。その時代、文字がなかったわけだろ。文字がないってことは、誰かが誰かに伝えていかないと、残っていかないんだよな。 そうすると、必要のないものや伝え切れなかったものは残っていかないんだよな、淘汰されていくんだよな。 オレさ。無念だと思うんだよ。たとえばさ、自分が何かの職人だったとするだろ。で、自分の弟子に全部を教え切る前に死んじゃったらさ。そこで切れちゃうわけだよ、歴史が。弟子もすごい真剣になるよなあ」 「あのさ、他の生き物はみんなそうだよ」 純は、花見客のこぼした食べ物に群がっている鳩を眺めていた。 「そういう、大切なものって言うのかな、生きてい - 205 -
くうえでの必要な知識は、本能として産まれ持ってるんだよね。
人間は、何を持ってるんだろ。 持ってないのかな。 何で、人間だけ特別なんだろ」 「分からん。 でも、今言った生き物っていうのと合わせて考えると、やっぱ自然淘汰説っていうの? ダーウィンか、その考えになって来るんだよな。 全てが口承だった時代は、いいものしか残らなかったんだ、多分。でも、今みたいに何でも残せる時代になると、いいものも悪いものも同じように残せちゃうよな。 芸術のレベルがどんどん下がってきてるのはそういうことなのかな。いやまさかな」 そこで卓也は腕組みをして、考え込んでしまった。 「下がってるとは思わないけど」 と純は前置きをしてから、 「だって、それだけ複雑な世の中になってるわけだし。比較できないものが増えてきてるからじゃないのかなあ」と言った。 「そうなんだよな。複雑なんだよ。人生はすごくシンプルなのにな。 人間ってさ。なんで物事を複雑にしたがるんだろうな。裏の裏は表だってこと、忘れてんじゃない - 206 -
の」
卓也はそう言うと、手のひらと手の甲を交互に見せた。すると、その動きに反応した鳩が、驚いて一旦飛び上がり、またすぐに戻ってきた。 「びびってる、こいつ」 と卓也は笑って、もう一度同じ動きを繰り返した。 「前に一度、ヤマさんとヤッコと、四人で飲んだじゃない」 と、純は何か思いだしたのか突然そう言った。 「あのときの本。読んだんだよね」 「ジョイス?」 「そう。でさ。恐怖の定義。 あれ、やっぱり違うよ。彼は、恐怖について考えていたんじゃなくて、悲劇的な感情について考えていたんだ。確かに、憐憫と恐怖の二つについて定義していた。でも、それは悲劇的な感情の二つの側面だって言うわけでしょ、彼は。で、「引き留める」って言葉は静的な感情だって言ったじゃない。彼が一番言いたかったのは、ここだと思うんだ。恐怖も憐憫も、激しい、動的な感情ではない。そうじゃなくて、精神を引き留めて昇華させて、動的な感情を超越した部分において、静的な、厳粛なものなんだって、そう言いたかったんだよね。 でも、まあ、作中人物の意見だから。もしかするとジョイスはわざと少し間違ったことを書いてるの - 207 -
かもしれないね。人物のリアリティを計算して。ジョイスは、そういう遊び心があるから」
「なるほどね。まあ、それについては」 と卓也はにやりと笑って純を見て言った。 「黄河で釣りでもしながらのんびり考えるとしよう」 純は、アハハ、と笑った。 「ヤッコの写真を見てるとな」 と卓也は言って、ちらっと純を見て、また続けた。 「芸術には、全ての審美的なものを排除する無限の力があるような気がするんだ。 あいつの写真には、善も悪も写らない。ただ、ひたすらに芸術なんだ。それ以上でもそれ以下でもなく、ただ単に芸術なんだよな。一番近くで見てるお前なら分かるだろ?」 純は頷いた。それを確認すると、卓也はさらに続けた。 「それが、本物なんだよ」 純は、ただ曖昧に、 「そうだね」 と言って首を振って歩いている鳩の群れを眺めていた。 「な、鳩の首を押さえたら、歩けなくなるかな」 卓也が楽しそうに言うので純は笑った。 「やってみれば」 - 208 -
「なんだよ、冷たいな。
一緒に捕まえるか、なあ」 卓也が立ち上がると、やっぱり鳩は驚いてちょっと飛んで、また戻ってきた。鳩は鳩なりに、自分の間合いを持っているのだ、と純は感心してその様子を見ていた。 「鳩食べるのってどこだっけ」 と純は訊ねた。 「さあ。フランスか、イタリアか。 ヤマさんに聞けばいいよ。そういえばな、ヤマさん。パリにいたときさ、痴女に会ったんだって」 と卓也はその話を思いだして、ぷっと笑った。 「痴女」 「そう。痴女。コート着た女が後ろつけてきてて、路地に入ったらその女がさ、コート開いたんだって。したら、アハッ、何にも、着て、なかった、んだってさー」 と卓也は後半から笑いだしていて、それでも無理して笑いながら喋ると、 「はー、笑った」と言って伸びをした。 「それって、娼婦じゃないの」 「そうとも言うな」 「すごい、積極的なアピールだね」 と純はちょっとしたカルチャーショックを受けてしまって、ぽかんとしていた。 「習慣の違いとか、考え方の違いだよ。 - 209 -
日本で普通にやってることも他の国では普通じゃないことって、きっといっぱいあるんだろうな。そういう、いろんなものを見に行けるっていうのがすごくワクワクするな」
卓也は本当に楽しそうだった。だから、純はそうやって思い切って飛び出していける、逞しい行動力がうらやましいと思った。 純は陽が傾き始めて影の薄くなった卓也の横顔を見ていると、一瞬中学時代の顔と重なったのではっとした。放課後の夕焼。あのイメージは、実際の夕焼ではなくて、卓也そのもののイメージだったんだ。純はなぜか、そう思った。 「そろそろ行くか」 卓也はそう言うと立ち上がった。純が同じように立つのを待ってから、歩き始めた。 「今日は来てよかった。 何て言うか、オレにとってもこの場所は大切なところだからな。 そう考えると不思議なんだよな、オレたちはさ、やっぱり出会わなきゃならなかったんだろうな。オレっていう人間の何パーセントかはお前からもらってんだから。なあ」 卓也は不思議そうに、しみじみ言った。純も全く同じことを考えていて、といっても純の場合は何十パーセント、と桁が違っていたが、内容は同じだった。だから、純は、 - 210 -
「そう思う」
とだけ言うに留めた。 世界には何億もの人間がいて、自分はそのうちの一割にも会えないんだと、卓也は言った。自分の生きているこの世界の、ほんの一部しか知らずに生きていくのは、あまりにももったいないことだと、そう言って笑っていた。 純は、卓也のことを考えるとき、決まって空を見上げる癖がついてしまっていて、今もまた空を見上げていると、 「また考えてる」 と美紀に言われた。 「なんだよ」 純は見透かされてしまったのが悔しくて、強がってみた。 美紀はそういう純の強がりを冷やかすように笑いながら小走りに走って、イチョウの木の下でしゃがみこんだ。 「ね、見て見て、全部落ちちゃった。 昨日はまだ少し、残ってたのにね」 純は裸になった木を見上げて、 「一年て、あっという間なんだな。 年明けたら、成人式じゃん。 美紀はやっぱり着物?」 美紀は軽く頷くと、新しい落ち葉を拾い、純にそ - 211 -
れを見せながら、
「こんな色の着物だよ。カラシ色っていうのかな。私の式っていうより、お母さんの式みたいよねぇ、すっごく張り切ってるもん」 純は、アハハ、と笑って、 「女の子は、待遇が違うね」 と言った。 「当然でしょッ」 美紀は偉そうにそう言うと、 「二十歳ってさ。 もっと大人なのかと思ってたけど、何にも変わらないんだね。 あと十年経って、三十になっても、そう思うのかな。いつになったら、見た目と同じくらいしっかり出来るんだろ」 と今度はしんみり言うので、 「美紀は大人だよ」 と純はちょっと励ますつもりで言ってみた。 「もうおばさんだって言いたいの?」 美紀はそう言って純を笑いながら睨んだ。 「ばか」 「でもね。 何となく、不安になるよね」 美紀はそう言うとため息を漏らした。 そういう漠然とした不安や突然襲ってくる理由のない物悲しさ、人恋しさというものを感じるように - 212 -
なったのは一体いつからだろう、と純は考えてみた。全てのものに原因があって結果があるのなら、こういう不思議な感情にも始まりと終わりがあると考えられるわけで、もちろんそういう因果律を信じているわけではないけれど、いつかなくなっていくのだろうと思った。そして、そういう心の尖った部分が削られていくことが、なんとなく寂しい気もした。
日常の生活の中にこそ、輝いているものがあるんだと彩子が言っていたのを突然思いだした。 「芸術っていうのは、別に特別なものなんかじゃないのよ。 普段の生活の中の、ちょっとしたこと、ほら、きらきらッ、てしてる瞬間。それって命の温もりや力強さなんだよ。 だって、芸術って自分を知ることだもん」 彩子はそう言いながらシャッターを切り続けていた。 純はそれを正しいとか間違っているとか、そういうふうに秩序付けて考えることは出来ないと思った。それは、漠然とした言い方しか出来ないがただ『感じる』ということなんだろう。卓也の言っていた口承も結局そういうことで、言葉というものが持つ絶対的排他的な部分がそれを歪めてしまうこともあるんだと思った。 「また見てる」 - 213 -
と美紀が言ったので我に帰って美紀を見ると、上を指差していたので、しまった、と思った。 そうやってしばらく歩いていると、美紀は突然、 「なんか、あったかいものが飲みたい」 と言いだしたので、純は一度周りを見て、自動販売機があったのでそれを指差して、 「何がいい」 ととりあえず訊いて、 「ロイヤルミルクティ」 という返事が返ってくると、買いに行った。 硬貨を入れながら、純はふと、ミルクティの『ミルク増量』という文字を見て、きっと美紀もヤッコもヤマさんも瀬川さんも、新井も飯田も、みんな、何パーセントかはあるんだろうと思った。 温かいミルクティを美紀に渡すと、 「熱い」 と当たり前のことを言って美紀は微笑んだ。 - 214 - | ↑ページトップ | あとがき → | |