引用「青い春風」内で引用されたものや、パロディの元となったものについては、こちらにまとめた。- 1 -
あとがきこの小説は、私が十六歳のときに書き始めた同名小説を、設定は当時のままで書き直したものだ。結末は出来上がっていたが、結局完成しないまま引き出しの中で眠っていた。まさか、十年もの時を経て書くとは思わなかった。リバイバルブームといわれる最近の流れの影響だろうか、とも思ったが自分では単なる偶然だと思っている。時間設定はもちろん当時のもので、昭和から平成への移り変わりの時期に物語は始まった。もちろんまだ携帯電話のない頃だ。今回、書き直すにあたって現代版に修正しようと思ったが、この携帯という存在によって、この物語はある意味、破綻してしまうので当時のままにした。 さすがに、いまさら十代の少年少女を書く、というのは結構難しくて、こんなことを言ってしまうのはとても勇気のいることなのだけれど、ほとんど想像だけで書いた。 私の十代の記憶というと、飯喰って、寝て、恋愛して、また飯喰って、という感じだった気がする。そして、私の十代はやっぱり私だけのもので、全称としての「十代」とは一緒にしてほしくないと思っていた。 だから、この物語の中にはほとんど「地名」が存 - 2 -
在しないようになっていて、出来るだけ周辺の描写もしないようにしてある。それは、ただ単純に読者の思い出と結び付けやすくして、物語のバックグラウンドを組み立てやすくした、と言ってもいい。読む人が、のびのびと自分の経験に当てはめて想像できるようにしたかった。はたして、それが成功したかどうかは、残念なことに、あなたにしか分からない。私に、それを知ることは出来ないのだ。ひとつあるとすれば、それは感想をいただくことだろうか。
この物語は、純と卓也という全くタイプの異なる人間が出会うところから始まって、別れるところまでを描いている。 純と卓也は、それぞれ現実と理想の代弁者という側面も持っていて、理想は現実より前を向いているものであるわけで、だからこそ卓也は常に純の一歩先にいる、ということもできる。 純と卓也の性格形成の元となったのはヘッセの『デミアン』の影響が強いのではないかと思っている。当時の私にとって、ヘッセほど強く影響を受けた人物はいないと思う。興味のある人は、読んでみるといい。 あとがきで説明を入れるようでは、その小説は不完全なものだと私は思っているので、あまり多くを語るのはよそう。 - 3 -
最後に、モニターの文字を読むというのは結構疲れるもので、それもこういう原稿用紙換算で三百枚にもなる長編を読むのは、とても大変なことだったろうと思う。最後まで読んでくださった皆様に、心から感謝すると共に、深くお礼を申し上げたい。最後まで読んでくれて、本当にありがとう。 そして、執筆中励ましてくださった、多くの皆様の温かい心遣いに感謝いたします。 二〇〇三年一〇月二十五日 和泉直人 追記 この度、全文を再読し、加筆修正を行った。これは、以前から考えていたことで、個人的な理由だが今回文書形式を変更したので、そのついでに気になっていた箇所を修正した。しかし、まだ満足していないので、今後も加筆修正を行うだろう。物語自体に変更はないが、ページ数は五ページほど増えた。 二〇〇六年一二月〇八日 - 4 - | ↑ページトップ | |