ある日の春風地下鉄の階段を昇って目の前の交差点を渡ると、八分咲きの桜並木が目を惹いた。昨日、今日と暖かい日が続いたから、一気に開花したんだ、と彩子は思って、それからすぐに、昨日はどれくらい咲いていたんだろう、と思いだそうとしてみたが記憶のなかには全く残っていなかった。それもそのはずだった。昨日は一日中、撮影のためにずっと室内にいたのだから。桜を横目に歩きながら、彩子はカメラを置いてきてしまったことを少しだけ後悔した。先日、大学時代からの友人である、卓也から久しぶりに届いた絵葉書に「日本はそろそろ桜の時期なんだろうな」と書いてあったので、咲いたら写真に撮って送ってあげようと思っていたのを、思いだしたのだった。 公園を囲むように並んでいる桜の下では、早くも花見ムードが漂っていて、丁度昼休みの時間でもあるから、多くの人が桜の周辺で昼食を取り始めていた。 懐かしいなぁ。その様子を見ると、彩子はなぜか、懐かしいな、と思った。そんなふうに、桜を眺めながらのんびり昼食を取るなんて、もう何年もしていないことだった。最後に花見をしたのっていつだっけ、えーっと。大学三年のときだなぁ。じゃ、もう二年も花見してないんだ、あたし。 - 1 -
でも、多分、今年はできそうだな、と思うとなんだかうれしくて、彩子はちょっと微笑んだ。もちろん、花見の予定があるわけではなかったし、これから急に予定が入るとも思えなかったが、いつもの「予感」とでもいうような、そういう彩子特有の感覚でそう思っただけなのだ。この時期は卒業、入学や入社といったものに関係したイベントが多く、彩子は写真関係の仕事をしているので必然的に写真を撮るために駆り出される機会も多くて、他人の花見の手伝いは出来ても、自分の花見をする時間は、今年も取れないだろうと思っていた。だから、余計に彩子はうれしかった。
彩子はそのまま歩いて公園を通り過ぎると、コンビニが見えたので、なんとなく中に入ると、別に買うつもりもなかったが見ているとやっぱり買っておこうという気になった。きれいに並んだ、おにぎりの前で、不意に彩子は、卓也は和食が恋しくならないのかしら、と思った。卓也はいつも、絵葉書を送ってくる。自分で風景画を描いて、その端にちょこちょこと短いことばを並べるだけで、普通の手紙のような、そういう言葉のやりとりはほとんど無い。もちろん、彩子はきちんと手紙を書くのだけれど、卓也の方からそういう手紙が来ることはなかった。だから、卓也がどういう生活をしているのかだとか、何を思っているのかだとか、そういう現状が全く分からないのだった。でも、海外放浪を続けてい - 2 -
る卓也の生活をいろいろと想像するのは、楽しいことだった。
不意に彩子は、もしかすると、ヤマさんのところにはそういう手紙が来ているのかも知れないな、と思った。ヤマさんというのは彩子の大学時代の同期だが、海外に留学していたため歳は二つ上でみんなの兄貴分、という感じの恰幅の良い男だ。彩子は最初、山口さん、と姓名で呼んでいたが次第に短くなって、ヤマさん、になった。 ヤマさんと、卓也とあたし。大学の頃はあんなにいっつも一緒にいたのにな。なのに大事なことは二人で話してさ。ずるいんだよねぇ、全く。 結局、彩子はおにぎりを三つと、お茶とお菓子を買って外に出た。 古くさい、小さなビルの建ち並ぶ奥まった通りには、小さな画廊がいくつもあって、その中の一つに彩子は向かっていた。歩きながら彩子は、今日は何だか、卓也のことばかり考えちゃうな、と不思議に思っていた。 彩子はビルの前で一度立ち止まり、バッグの中から葉書のような紙切れを取り出して、住所を確認した。うん、間違いない、ここね。彩子は軽く頷くとビルの中に入っていった。 彩子は階段を昇ってすぐの小さな扉の前に立つと、コンコン、と彼女にしては控えめなノックをして返事を待ったが返ってこないので勝手に入ること - 3 -
にした。いないのかな。まさかね、準備で忙しいんだ、きっと。うーん、勢いで入っちゃえばいいのよね、こういうときは。
そして、彩子はわざとらしく乱暴に扉を開けると同時に、 「ヤマさぁーん、久しぶりー。おめでとー」 と叫ぶように言って、そのまま中に入ろうとしたが、山口は丁度扉を開けようとしていたらしく、すぐ目の前にいたので、彩子は一歩を踏み出せずに立ち止まって、アハハ、と笑い、 「返事くらいしなよ」と言って山口の肩をぽんと叩いた。 部屋の中は暗く、逆光で彩子の顔は見えなかったが山口は声を聞いて瞬時に彩子だと分かったらしく、親しみのある笑顔を見せると、 「おう、彩子か。 なんだよ、よく来たな。まあ、入れよ」 と言って手招きをすると、自分は部屋の真ん中に立ててあるイーゼルに向かって歩いていった。彩子も山口に続いて部屋の中に入っていくと、辺りを見回した。想像していたよりもずいぶん広いと思った。大体、十五畳程度の広さだろうか、広々とした空間の壁の三分の一程に、山口の絵が飾られていた。まだ展示の途中なのだろう。部屋の中は間接照明だけなので少し薄暗いがそれでも充分な明るさだと彩子は思った。 - 4 -
「彩子は、おとなしくなった感じだな」
歩きながら山口が言った。 「ん? これのこと?」と彩子は笑いながら自分の髪をつまんでみせた。トレードマークだった紅葉のような紅い髪は見る影もなくなり、黒に近い栗色の髪になっていた。 「まあね。 でもさ、ヤマさんは変わんないね。相変わらず、フケ顔だよねー。ひげ剃りなよ、ひげ」 彩子はそう言ってケラケラ笑いだした。山口は、苦笑して「うるさい」と言うと部屋の中心に立ててあるイーゼルの前で立ち止まった。 「ね、この間の展覧会に出してたやつは?」 「ないよ」 「えーっ。なんで、どうしてェ?」 と彩子は驚いてちょっと興奮気味に訊ねた。山口は、その彩子の様子を楽しむように笑うと、 「だって、みんなもう見たろ。 同じの置いたって、面白くないからな、今回は新しいのだけだよ。それに、あれは売りたくない」 と言って周りを見た。彩子は、まだ納得がいかないというような顔をして、 「入選したやつなのに? もったいないよぉ、そんなの。 あ、でも、そういうの、なんかヤマさんぽいね」 - 5 -
と言うと手に持っていたコンビニの袋を山口に手渡した。
「どうせ、ご飯まだでしょ。おにぎり買ってきたよ」 「お、気が利くね。サンキュ。 もう、そんな時間か」 山口は時計を見てちょっと驚いた。それからコンビニの袋を受け取ると、部屋の入口近くに立て掛けていた折畳み式のテーブルと椅子を運んできて、 「まあ、座れよ。食べようぜ。 じゃ、いただきます」 と言うと自分は先に椅子に座り、おにぎりを食べ始めた。 「前に彩子と会ったの、いつだったかな。ずいぶん久しぶりな気がするな。気のせいか?」 「展覧会のときだよ。だから、半年以上前。えー、そう考えると早いね、もうすぐ一年かぁ。 はぁ、卒業して、もう二年も経っちゃったんだねぇ。ヤマさんは、ずっと大学にいるんだもんね。あたしなんか、もう遠い昔のことって感じがするなぁ」 「そりゃ大げさだろ」 山口はちょっと苦笑して、そう言った。大学院に進んでいても特に変化はなく、新しい学生たちのレベルも毎年上がってきていて、自分に対しての迷いや苛立ちを感じ始めていた時期でもあったから、彩 - 6 -
子の感じている、大学院に進んですごくがんばっている、という印象が何となく胸に刺さる気がした。実際には、彩子のほうががんばっているということが山口には分かっていたからだ。
「ね、こうしてテーブル囲んでると、思いだすね、大学の頃のこと。よくさ、集まったよね。卓也の部屋で、あたしとヤマさんと、三人でさ。こんな感じで、テーブル囲んで、批評会の話、したりしたねー。 懐かしいなぁ。あれって、大学に入ってすぐ、まだ一年のときだよね」 彩子はそう言うと頬杖を付いて微笑んだ。そのとき、卓也の友人だった純と出会ったことも同時に思いだしたからだったが、そのことを山口に言うのが何だか恥ずかしくて、言わなかった。やはり彩子にとって、純は特別な存在で、特別な思い出でもあった。それはけして恋愛にはならなかったが、それでも大切な人であり、存在であることには変わりなかったのだ。 「あいつ、結局一年で辞めちまったからな。そういえば、卓也がいなくなってからは彩子とも会う回数がだいぶ減ったんだよな。 まあ、それは卓也のせいと言うよりは、あいつ、えーっと、純か、そうそう。あいつのせいだよな。二人でよく写真撮りに行ってたもんな」 山口はそう言うといたずらっぽく静かに笑った。 - 7 -
あ、分かってた。ヤマさんは鋭いね。彩子はちょっと目線を落として、テーブルの上のコンビニの袋を見た。お菓子。少し食べようかな。彩子は袋の中からチョコレートの小さな箱を取りだして、ひとかけら口に含んだ。
「このチョコね、おいしいんだよ。ヤマさんも食べなよ、ほんとにおいしいから。 ね、ヤマさんて、純くんとあんまり会ってなかったっけ?」 「まあな。 あんまり、印象ないんだよ。卓也の部屋で二回くらい一緒に飲んだだけだからな。あとはきみたちから話を聞くだけだったしな」 そう言うと山口はちょっと考えてから、 「いや、でも、面白い奴だとは思ってたな。あの頃、きみたち二人が純の名前を一度も出さない日は、ほとんどなかったんだから」と続けて言った。 「あはは。 うん、そうだったかも」 彩子は笑いながらそう言うと、またひとかけらチョコレートを口に入れた。 「なあ、純は今、なにしてるんだ?」 山口は唐突に訊ねた。その訊き方があまりにも自然だったので反っておかしな感じがした。 「純くんはね、なんと、センセイだよ。 びっくりした? - 8 -
あのね、中学で国語の先生やってるんだって」
「だって、ってなんだよ。他人事みたいな言い方だな」 と、山口は軽く探りを入れてみた。彩子の返事次第で二人がどう進展したのかが分かるからだ。 山口の思惑を知ってか、彩子は「そう?」と軽く流してしまった。それから、 「だって、あんまり会ってないんだもん。最近は電話とかメールだけだよ、それもたまーに。なんか、けっこう忙しいらしくてさ、まあ、それはあたしもだけどね」と言った。 「純もパソコンやるのか、へぇ」 山口はそれが意外だったのか、素直に感心した。それから、 「彩子も仕事、大変なのか。確かに、カメラマンの助手って忙しそうだもんな」と言った。 「ん? 大変ってほどじゃないけど。好きでやってることだし、早く一人前になりたいし。ただ、時間も不規則だし、かなり力仕事だね。おかげでだいぶ逞しくなったよ」 彩子はそう言うと右腕を曲げて、力こぶを出すまねをした。山口が話題を変えてくれたことに、彩子は感謝した。純の話題が続いても、最近連絡を取っていないため、分からないとしか答えようがなかったのだが、それを何度も口に出すのは、なんとなく淋しい気がして、僅かな抵抗があった。 - 9 -
山口がまたおにぎりを食べ始めたので、席を立つ丁度良いタイミングだと彩子は思った。
「ね、ヤマさん。 ちょっと絵、見せてね」 そう言うと彩子は立ち上がって、振り向いた先にあった絵に近付いていった。花瓶の花と、ゆったりした布の絵で、繊細で大胆な独特の筆使いが、リャドのジヴェルニーの森みたいだと彩子は思った(彩子はこれ以外に、リャドの絵の名前を知らなかった)。 こうやって見てると、やっぱり批評会、思いだしちゃうなあ。卓也、いっつもいろいろ言われてたっけ。あたしはあの頃の卓也しか知らない。そうだよ、まだ十九の頃だもん、わっかーい。そっか、五年も前の卓也なんだ、あたしが知ってるのは。もうすっかり、変わったんだろうな。あ、違った。そのあと一回会ってるんだ、でも二十一のときだから変わんないか。あ、そうか、今日は何だか卓也のことばっかり考えちゃうと思ったら、ヤマさんと二人で会うからなんだ。なるほどね。ヤマさんと卓也とあたし、三人いつも一緒だったから。習慣て怖いなぁ。なんか笑える。あっ、そうそう、この花瓶、あたしもデッサンしたやつだ。わー、まだあったんだ、これ。でもやっぱり、ヤマさんの絵はすごいな。才能を感じるっていうか、んー、でも、なんか、足りないんだよねぇ。もったいない。 - 10 -
彩子は隣の絵に移った。どこかの田園風景のようだった。うーん、風景画は、ヤマさんあんまり、だなぁ。風景画は、やっぱり卓也のがいいな。絵葉書に描いてる景色、なんていうか、卓也の風景画には感情がこもってる感じがするなぁ。そういえば、いつだったか感情の表現について三人で話したなあ。なっつかしーい、もうあんなふうに議論する体力無いよ、あたし。もう歳だわ。ダメ、ダメ。そんなこと考えちゃ。病は気から、ってこれは病じゃないか。ふふっ。
「田んぼってさ。朝も夜も、天気良くても雨降ってても、いつでもきれいに見えるよな、不思議だよな」と以前卓也の言っていたことを、彩子は卓也の声でそのままそっくり思いだした。 あはっ、そんなこと言ってたっけ。世界は美しい、だからそれを描き留めたい、だっけ。変な奴。でも、卓也の水彩画はドイツとかイタリアとか、そういうヨーロッパの古い街並みにすごく合うだろうな。早く送ってこないかな。楽しみ。あ、手紙。ヤマさんのとこに来てるか訊いてみよう。 「ねぇ、ヤマさん、最近卓也から手紙、来たァ?」 彩子はその場から振り返って訊ねた。山口は「きてない」と即答した。それから、 「手紙はほとんど来ないからなぁ。大体、絵葉書だからな。 オレに訊くより純に訊けよ」と言った。 - 11 -
彩子は、やっぱりそうなんだ、と思った。そして、電話する良いきっかけができたとも思った。それから、ふと、卓也と純くんはやっぱり、今でも連絡を取り合っているのかしら、と考えた。卓也は、大体半年くらいで住所を変えて移動しているし、早ければ一ヶ月でもう違うところに移り住んでいる。だから、卓也からまめに連絡していなければ、その足取りを追うことはできない。じゃあ、と彩子は思った。あたしたちに送ってる絵葉書以外に、純くんには手紙とか電話で連絡取ってるんだろうなぁ。じゃ、純くんも電話してる時間、あるんだ。ふーん。あたしには忙しいって言ってるくせに。やあねぇ。彩子は少し卓也に嫉妬して、むっとした表情を作った。
だからといって、自分が未だに純のことが好きなのかというと、そうではないと思っていた。友達より特別な存在には違いないが、それが恋愛感情を伴ったものかというと、多少懐疑的で、どちらかというとやっぱり、仲間、なのだった。ただ、好きだった学生時代から二人の距離が全く変わっていないせいもあり、純のことを考えるとき、やっぱり胸の内がくすぐったい感じに、ざわざわするのだった。 こういう薄暗い空間にひとりでいると、いろんなことを考えちゃうな、と彩子は苦笑した。実際、現像のとき暗室に籠もっていると、手を動かしながらあれこれ止めどなく考え事をしていることがよくあ - 12 -
った。それは何か悩み事や、仕事上の問題や休日の予定だとか、そういうひとかたまりの思考ではなくて、後で思いだせないほど気まぐれで些細で単純な、言い換えるなら流砂のような思考の流れ、とでもいうようなものなのだった。山口はまだ食事中で、それでも一応彩子の様子を気にしているらしく、彩子の動きをずっと目で追っていた。だから、彩子が振り向くとすぐ、その手を止めて彩子の相手ができるように身構えた。
「食べてなよ」 山口のそういう行動が、彩子にはよく分かっていたので、笑ってそう言うと山口のところに戻って椅子に座った。 「あんまりいいのなかったか?」 山口は、彩子が途中で戻ってきてしまったので、飽きてしまって戻ってきたのかと思っていた。 「んー。 そうじゃないけど。どうせ、また明日見るから。 楽しみはとっとかないとね」 彩子はそう言うと、にこにこ笑った。いろいろなことを考えてしまって、集中して見ていられなくなった、とは言えなかった。 「やっぱり変わったよ、彩子は」 山口はそう言うと、親しみの籠もった眼差しで彩子を見つめた。彩子が黙っているので、山口は続けて、 - 13 -
「彩子はさ。
もっとハッキリしてたよ、学生の頃は。それが彩子らしくて良かったんだけどな。 いや、今は良くないって言ってるわけじゃないぞ、何ていうか、うん、やっぱり落ち着いたな、彩子は」と言うと手に持っていたおにぎりの袋を丸めてゴミ袋に入れると、「ごちそうさま」と手を合わせた。 「ハッキリ」 彩子は山口の言葉を繰り返してみた。言いたいこと、言いたいようにハッキリ、言ってたってことなの? じゃ、今は言ってないのか。そうね、そうかも。 「うーん。 あのね、ヤマさん。今とあの頃じゃ、やっぱり関係っていうか、そういうのが変わってると思うのね」 そこで山口は「分かるよ」と相槌を打った。 「あたしなりに、エンリョしてんのよ。イイ娘でしょ」 すると山口はぷっと吹きだして、 「ああ、そうだな、イイ娘イイ娘」と言って頭を撫でる真似をした。そして、ちょっと慣れてきたのかな、と思った。彩子はにこにこ笑って、チョコレートをまた口に入れた。 「あの風景画見てたら」と彩子は話し始めた。 - 14 -
「なんだか、卓也の水彩画思いだしちゃって」
「そっか、それで納得。だから戻ってきたんだな」 山口はそれで一応納得したらしく、大きく頷いてそう言うと、足元の鞄の中から絵葉書を取り出して、彩子に見せた。石畳の道に立派な教会、その後ろには丘が見える。 「うん、これ。 あたしのと大体おんなじ、でも、描いてる位置が違うのかな?」 「卓也は、同じ絵は描かないよ。あいつの性格からすると、毎日少しずつ場所を移動して描いてるんだろうな。絵葉書以外の大きいサイズの絵も見てみたいもんだな」 「そうだね。早く帰ってこないかなあ。 っていうかさ、帰ってくるの? 卓也は」 彩子はそう言うと首を傾げた。そして山口の目を見た。ヤマさんは知っているのかも知れない、でもまだ口止めされてるかも知れない。もしそうなら、絶対にヤマさんは言わないはず。だって、卓也が最初に旅に出たときも、ヤマさんだけが知ってたんだもんね。 彩子は、山口のわずかな変化も見逃さない、という感じで、注意深く、山口を見つめた。目が合うと、山口は視線を落としてはにかむように笑った。そして、 「おれはなにも知らないぞ。 - 15 -
ずいぶん必死だな、彩子は」と言った。
「だってェ。 ヤマさん、隠し事するんだもん。卓也が出て行くときもさ。自分だけ知ってたじゃない。ずるいよ」 「それは、卓也に口止めされてたから仕方なく、だろうが。別に悪意があってのことじゃないよ」 そう言うと、山口は何かを思いだしたのか、突然ぷっと吹き出した。それに釣られて、ワケも分からないまま、彩子も笑った。そして、二人とも大声で笑った。 「あー、笑った。腹痛てえ。 このこと、前にも話したよな。それも、一度や二度じゃないぞ。思いだしたよ」 「えー、そうだっけ」 彩子はまだ笑いながら、そう言われて思いだしたので、ちょっと恥ずかしそうに下を向いた。 そうだった。そうだよ、前にも言った。まだ大学にいた頃だ、えー、でも、何度も? あのとき一度だけじゃなかったっけ、おっかしいなあ。 彩子が下を向いたので、山口は、彩子が思いだしたのだと思った。だから、この話はもう終わりにして、そろそろ明日の準備を再開しようと思った。 「よし。 お腹も一杯になったし、そろそろ始めるか。彩子も、手伝ってくれるんだろ?」 「うん、そのつもり」 - 16 -
そう言うと彩子は微笑んだ。 - 17 - | ↑ページトップ | 18〜34頁 → | |