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図書館の入り口の壁に掛けられている、雷雨の丘らしい風景画を見る度に、倉本瑞希は誰の描いた、何という絵なのだろうかと一瞬考えるものの、実際にその絵が誰のもので、そして何という題が付けられているのか、調べる気にはならなかった。そして、今日はその風景画を見ると、すぐに卓也のことを思いだした。それは、単に今朝卓也からの絵葉書が届いたからで、そしてこの昼休みの間に、それをじっくり見ようと思っていたからでもあった。しかし、午後の仕事を思うと、瑞希は多少憂鬱だった。面倒なことを押し付けられていたからだ。
こんないやな、そしていい日は珍しいものだ、と瑞希は思った。 入り口をそのまままっすぐ通り抜けて、図書館の外に出てみると、およそ三月らしくない、とても暖かな様子に少し驚いた。まるで、五月のような爽やかな大気が瑞希の首からうなじにかけてくすぐっていった。涼しそうな木陰のベンチには、読書をする女性が座り、その向こうの芝生にも同じように読書をしている制服姿の二人の女生徒が見えた。こっちはいつも駄目だな、まあいいや、どうせ後ろのベンチは空いてるだろ。そっちで食べよう。瑞希はその場でくるりと反転すると、建物の後ろにまわった。図書館の後ろには自転車置き場と職員専用の駐車場があった。その途中に、二人掛けの古いベンチがあって、職員たちはそれを「後ろのベンチ」と呼んで - 18 -
いた。
今回の卓也の絵は、ヨーロッパの古い街並のようだった、と瑞希は歩きながら、バッグのなかの絵葉書を思いだしていた。図書館の建物に沿って歩くと、生垣のように植えられた椿にも沿って歩くことになる。椿の深い緑色がとても眩しく、そして美しかった。 予想通り、後ろのベンチは空いていて、瑞希はそこに座ると弁当箱を取り出した。瑞希は、毎朝自分の弁当を作る。司書になって最初の頃は、他の職員たちと一緒に外食もしていたが、昼休みくらいそういう関係から離れていたかったので、弁当にした。もちろん、金銭的な理由もあってのことだが、どちらかというとそれは名目上の理由だった。 後ろのベンチは、図書館の構造上、館内のどこからも見えない位置になっている。だから、瑞希はこの場所が気に入っていた。 時折吹く爽やかな風が、頭上の木の葉を優しく揺すり、その影が瑞希の上で踊っていた。この昼休みがずっと続けばいいのに、と瑞希は一瞬思って、すぐにそれを否定した。変わらないということは、なにもしないことと同じだ、建設的ではない、くだらないことだ。それは惰性だよ、怠惰。そうだろう、卓也。きみはすごいよ。 瑞希は箸の手を休めて、バッグの中の絵葉書を探した。レンガの舗道と、教会、そしてその奥に丘が - 19 -
あり、端の方に城塞のような壁が見えた。どこの景色だろう、と瑞希は首を捻った。きみは今、どこにいるんだ? 今回の絵葉書には、卓也からの言葉は見つからなかったが、右隅に「D」という文字があった。これは多分地名の頭文字だろうな、でもこれだけじゃ分かるわけないのにな。瑞希は肩をすくめて、絵葉書をバッグの中に押し込むと、また弁当を食べ始めた。以前にも今回のように、絵のみの絵葉書が送られてきたことがあって、そのときは数日遅れて別の手紙が届いたので、瑞希は今回もそうやって別に手紙が届くだろうと予想していた。だから、今は意味の分からない絵葉書のことも、それほど気を取られはしなかった。ただ、数日後に届くだろうその手紙のことを想像するのは、とても楽しいことだった。
卓也のことを考えるとき、瑞希は決まって、卓也と初めて出会ったセブでの日々を思いだすのだった。二年前、瑞希は友人の亮と卒業旅行でフィリピン・セブ島に行き、そこでたまたま卓也と出会い、それが縁で現在まで関係が続いているのだった。 そのときの卓也は、リゾート地の海岸で、現地の人間になりきっていた唯一の日本人で、瑞希には卓也のその姿が衝撃的だった。 「な、あいつ、日本人じゃね?」 亮は瑞希の肩を叩きながら、そう言うと道端で絵を - 20 -
描いていた卓也を指差した。その口振りは、明らかに彼を蔑視したものだった。
亮に言われて、瑞希は彼を見た。黒く日焼けした肌はまるで現地の住民と間違えるほどだった。そして日陰になった道端で、小さな折りたたみ椅子に腰掛け、小さな絵を描いているようだった。よく見ると、それは絵葉書のように見えた。二人はそのまま彼の前を通り過ぎようとした。そのとき、瑞希はふと目を上げた卓也と目が合った。瑞希ははっとした。静かな、そしてとても柔らかく、それでいて力強い意志を持った眼差しだった。 二人はそのままビーチまで歩き、砂の上に寝転んだ。美しい海を見つめながら、瑞希は卓也のことを考えていた。名前も知らないその男の目は、見ていて吸い込まれそうな気がし、そして静かな意志の強さを感じて圧倒された。あの男は、一体何者なんだろう。こんなところで何をしているんだ? そしてあの姿。俺達のような観光ではない、しかし住人らしくもない。不思議だ。一体何をしている人なんだ? 瑞希は、いくら考えても疑問ばかり浮かび、解決しないことが分かっていても、なぜか頭から離れなかった。そして、こいつは何も感じていないんだろうか、と亮を見た。彼は横になり、海を見ているというより、物色しているようだった。 「亮」と瑞希は彼に声を掛けた。 - 21 -
「ちょっと飲み物買ってくる」
亮はうん、ともああ、とも取れるような曖昧な返事をしてから起き上がると、 「じゃ、オレにも何か買ってきてよ」 と言って軽く伸びをして、また横になった。 瑞希はぶらぶら歩きながらコーラを二本買い、戻ると亮は見知らぬ女性と話していた。ヨーロッパ系の白人で、見たところ同じくらいの年齢に見えた。亮は意外にも日、英、独、仏と四カ国語も話せるので、どこに行っても臆せずに話し、たくさん友達を作ってくる。もちろん、瑞希もそういう彼の語学力を利用して、こうやって一緒に旅行しているのだから亮が一人で行動することになっても、文句は言えない。むしろ逆に、そういうときに変に気を遣われるよりましだった。 「ハロー」と瑞希は彼女に挨拶をして、亮にコーラを二本とも手渡すと、 「彼女にあげるよ」 と言いながらその場を離れて海に入った。 夜になり、二人は宿に戻って話をしていた。亮の話によると、彼女はフランスから遊びに来ていた学生で、アジアに興味があっていろいろなところに行っているらしかった。 「アジアに興味があるってことは」 と亮は息巻いて言った。 - 22 -
「アジアの男にも興味あるだろ、な、そう思うだろ?
なあ、これからちょっと飲みに行こうぜ」 「オレも行くのかよ」 意外なことで瑞希は驚いた。どうせ、行っても二人はフランス語で会話だしな。オレだけ日本語で参加かよ、亮に通訳してもらって。つまんねぇな。だったら、一人で残ってたほうがましだ。 「亮、一人で行ってこいよ。 泊まってる場所聞いてるんだろ? 行ってくればいいじゃないか。場合によっては帰ってこなくてもいいぞ」 「まじで? ほんとに行っちゃうよ、オレ」 亮は楽しそうにおどけてそう言うと、早速着替え始めた。そして十分もしないうちに、部屋を出て行った。瑞希は突然静かになった部屋の中で、昼間の男について再び考えた。けれども、目が合った瞬間を繰り返し思いだすだけで、それが何度も頭の中でぐるぐる回っているのだった。すなわち、あの不思議な雰囲気を持つ瞳と、その佇まいとの違和感をずっと考えていたのだった。瑞希は、自分の人生観のなかに存在しない人間と出会った、ということから来る興味だということにはまだ、この時点では気付いていなかった。 しばらく部屋の中でじっとしていた瑞希だったが、暇をもてあましたのと、夜風が心地良く吹いて - 23 -
きたので、少し外に出ることにした。部屋を出て一階に下りると、そこのソファに卓也がいた。
「あ」とお互いが気付いた。そして、卓也は瑞希に微笑んで、「こんばんは」と言った。瑞希も軽く頭を下げ、挨拶しながら彼の目の前まで歩いた。 「ここに泊まってんの?」 瑞希はそう言いながら、彼の隣に座った。「まあね。あ、オレは卓也」 そう言って卓也は瑞希の前に手を差し出したので、瑞希も手を伸ばして握手をすると、 「倉本。友達と一緒に来てるんだ」 「ああ、見たよ。さっき出て行った。しかし、珍しいな、ここはあんまり日本人が来ないのに」 卓也はそう言うと苦笑した。変わり者だ、と言いたいらしかった。 「連れが英語カンペキだから。いつもそうなんだよ、安いとこ見付けてくるんだ、よくやるよ」 「いいことだ。友達に感謝するんだな。ここに来る奴らは大体ヨーロピアンみたいだ、あっちのガイドブックには載ってるらしいけど日本のには載ってないみたいでさ。オレとかきみたちみたいに行き当たりばったりの旅をしてる奴らじゃないと来ないんだよ。でもドミ(複数人で同室を利用する大部屋)じゃないから快適だろ? 値段はそんなに変わんないのにな」 そう言って卓也は悪戯っぽく笑うと、何か思い付 - 24 -
いたのか、突然瑞希をのぞき込んだ。それがあまりに近いので、瑞希は面食らってしまった。
「見た感じ同じくらい? 大学生?」 と卓也は、瑞希のそんな様子などお構いなしに訊ねた。 「あ、卒業旅行なんだ、今回は。 じゃあ、きみもそうなの?」 卓也は首を振った。そしてソファに大きくもたれて、「卓也でいいよ」と言った。それから、 「オレ、中退してんだ。今は旅の途中。ずっと絵を描きながら移動してる」 「へえ。もうどれくらい? 一ヶ月くらい?」 瑞希は驚くよりも彼への興味のほうが大きかった。旅だって? こんな時代に? 同じ歳ならもう就職だろうに。なのに、彼はぶらぶらとこんなに気ままに過ごしてる。何を考えているんだ? 全く分からない。 卓也は瑞希のそういう勘違い、というか思い違いをしていることに、苦笑した。そして、 「ああ、セブにはそのくらいかな。その前にはマニラに三ヶ月居て、その前はタイのプーケットにいたんだ。マニラは割と都会だったからちょっと仕事してたよ」 瑞希はそう話す彼の様子をじっと見つめていた。この余裕。旅慣れた、というよりも普通だ。普通す - 25 -
ぎる。遊牧民みたいなものか。絵を描いて移動? そうか、そういえばさっきも描いていたんだった。
「ふうん。 で、昼間描いていたのは何? 海でも描いてたのかい」 瑞希は自分でも不自然と思えるほど平静さを保ったままそう返した。しかし、卓也には意外なことだったらしく、 「昼間? 今日ビーチに行ってたのか」 と、少し驚いた様子で言った。今度はそれに瑞希が驚いた。 「何だ、覚えてなかったのか、てっきり気が付いてたと思ってたのに」 「えっ? ああ、いや、何て言うかさ、あの辺って観光客が多くてさ。日本人も多いんだ。ほら、ビーチにいたなら分かるだろ?」 慌てて卓也は言い訳をして、それから鞄を開けた。そして、中から一枚の絵葉書を取りだした。 「今日描いたやつ。あげるよ」 瑞希は卓也が差し出した絵葉書を手に取って見た。瑞希が想像していたものとは全く違っていて、淡い色彩の水彩画で、日本画のようでもあった。それは紛れもなく、あのビーチを描いたものだった。そして、卓也の言っていたことが真摯な現実として理解でき、改めてこの男が特別な存在だと感じた。 - 26 -
絵画を全く理解しない瑞希の目にも、この絵葉書はとても出来の良い、優れたものだということが分かった。
「いいよ、これ。すごくいい。 このぼかし具合が何ともイイ味だしてるね」 「嬉しいこと言ってくれるじゃんか」 卓也は、思いの外その絵葉書を瑞希が気に入ってくれたので、それをお世辞と取らずに、素直に喜んだ。 「ほんとは、これは日本の友達に送るやつだったんだけどな。まあ、いいや、また明日描くから。それより、これからどうすんだ? 友達はすぐ帰ってくんの?」 「さあ」と瑞希は首を傾げた。 「もしかしたら帰ってこないかもな。 あ、昼間ナンパしてたんだよ、あいつ。しかも相手は外人だぞ。ある意味尊敬するよ、オレは」 「やるな」と卓也は大きく笑った。 「そっか、英語できるって言ってたもんな。じゃあ少し飲むか? オレの部屋来いよ、ビールとラムが少しあるんだ。楽しい出会いに乾杯しようぜ、えーと、倉本?」 そう言うと卓也は瑞希の返事も待たずに立ち上がった。もちろん、瑞希にそれを断る理由は無かったので、返事をするまでもなく、頷いてその後を付いていった。階段を昇りながら、卓也は振り返りもせ - 27 -
ずに、
「なあ、倉本、名前は? ファーストネーム」と訊ねた。 瑞希は一瞬躊躇したが、まあいいだろうと思って言った。 「瑞希。倉本瑞希」 「瑞希。 へぇ、女の子と間違われたりするだろ」 卓也はそう言いながら軽く振り向いて横顔を見せた。 「たまに」瑞希はふて腐れたように吐き捨てた。瑞希は女性のような自分の名前が嫌いだった。 「ははっ、そんなこと気にすんなよ。名前なんて記号みたいなもんだ。いちいち気にしてたら胃に穴が開いちゃうぞ。 ここ、オレの部屋。まあ、入ってくれ」 ドアを開けると、卓也は微笑んだ。その笑顔を見ると、卓也の言うように名前などどうでもいいような気になってくるのが不思議だった。瑞希は頷くと、促されるままに部屋に入っていった。 あんなにうまいラム・コークは初めて飲んだな、と瑞希は思いだして口元が緩んだ。そして、今日は少し飲みたいな、と思った。亮に連絡してみようか。いや、でもあいつは忙しいからなあ。今日は……金曜日か。時間があったとしても、どうせ合 - 28 -
コンだろうな。却下。違う人を誘うか。誰かいるか? うーん。めんどくさいな、一人でいいや。
そのとき、後ろの方から歩いてくる足音が聞こえたので振り返ると、向こうはすでに瑞希に気付いていて、手を振っていた。 「おはようございます。 瑞希さん、今日もここですね」 「ああ、おはよ、亜沙美ちゃん。 今日もバイト? 頑張るね。最近毎日でしょ」 亜沙美と呼ばれた女性は、はい、と言って親しみのある笑顔を見せた。そしてそのまま瑞希の隣に座ると、 「ほんと、マメですよね。手作り弁当なんて。私も見習いたいです」 と言って瑞希の弁当を覗いて、「あーッ」とちょっと他人の悪戯を注意するような言い方をして、 「おしゃれな卵焼きですねぇ」と物欲しそうに言った。 「どんな卵焼きだ」と瑞希は笑って、 「食べる?」と亜沙美の前に弁当箱を差し出した。 「いいんですか? わァ、ありがとうございまーす。いつもすみません」 亜沙美は嬉しそうに顔の前で小さく手を合わせてそう言うと、指で卵焼きをつまんで口に入れた。そして、そのままもぐもぐと口を閉じたまま、おいし - 29 -
い、と言ったであろう音が聞こえた。それから、亜沙美は持っていたコンビニの袋をがさがさ鳴らし、サンドウィッチとお茶のペットボトルを取り出して膝の上に置いた。
亜沙美は、アルバイトを始めてもう半年ほどになる。図書館では夏休みにアルバイトを募集していて、そのときに入ってきたのが亜沙美だった。明るくて仕事も出来て、まだ大学一年生ということもあり長期で働くことを期待された、有望株である。職員みんなから好かれているが、なぜか瑞希と馬が合うようで、瑞希のことを兄のように慕っている。人嫌いの瑞希も亜沙美に対してはなぜか寛容で、年の離れた従妹、くらいの感覚で接しているつもりだった。しかし、心の中で亜沙美の存在が大きくなってきていることに、恐れを抱き始めていた。 「何か、今日は気持ち良いですね、暖かくて。あー、ぽかぽかした芝生の上で昼寝したーい」 亜沙美はそう言うと、ふうっ、と大きく息を吐いた。実際、図書館の入り口前の芝生には幾人かが座り込み、話をしているのがこの場所からも見渡せた。その様子を見ていると、亜沙美がそう思うのも頷けた。瑞希は何も言わずに亜沙美を見て、それから芝生を眺め、そして何も無かったかのようにまた食べ始めた。始めの頃こそ、瑞希は亜沙美のそういう無防備なところが一体どういうつもりなのか、深読みしてみたり、気になってはいたが、今はもう慣 - 30 -
れてしまって、別に何か気の利いた返事を待っているのではなくて、独り言の延長のような感じで、思ったことをただ口にしているだけ、ということが分かっているので特に言うことがない場合はそのまま流してしまうことにしていた。亜沙美を見ていると、瑞希は愛されて育つ、ということの重要性を痛感させられる。愛嬌があり、人と話すときは相手の目をじっと見つめ、相手に不快感を与えることなど皆無だと思える亜沙美の姿には、おそらく多くの男どもは勘違いしてしまうだろう、と瑞希には思えて仕方なかった。そして、そうやって真っ白のまま他人と接することのできる亜沙美がうらやましくもあった。
「そういえば瑞希さん、桜見ました? もう大分咲いてますよ」 亜沙美はふと思いだしたのか、突然そう言うと手振りを交えて説明を始めた。どうやら、ここに来るまでに通る道沿いに、桜が見える場所があるようで、昨日はまだ蕾だったのに今日は五分咲きくらいになっていた、と亜沙美は自分の細い腕を枝のようにくねくねさせ、その様子を何とか表現しようとしていた。その様子が可笑しくて、瑞希は笑いながら相槌を打っていたが、次の休館日前夜はみんなで夜桜だろうな、とか、今年の場所取りはきっとこいつだな、などと考えていた。 「あと、そこで絵を描いてるお爺さん集団がいまし - 31 -
た」
「桜の?」 「はい。 あ、いや、多分。見てないけど」 そう言って亜沙美は笑った。瑞希は卓也の絵葉書を思いだした。 「へえ。オレの友達にもいるけどね。絵描き」 「そうなんですか。初耳です」 「あれ。そうだっけ、言わなかったっけ」 「はい、聞いてないですよ」 瑞希は意外だと思った。亜沙美とはいつも話しているから、もうとっくに卓也のことを話しているものだと思っていた。こういう思い込みとは不思議なもので、そうやって思い込んでいると、それはもう周知のことのはずだからあえて言う必要もないだろう、と完全に省略してしまうのだ。その結果、それについては全く話に上がらないことになる。特に、瑞希のようにあまり他人に自分のことを話さない人間は、なおさらだ。 「今、丁度持ってるから見せてあげるよ」 瑞希は絵葉書を亜沙美に見せようと思った。こんなに良いタイミングなのは滅多にないことだし、卓也の話をするのは瑞希にとっても大歓迎だった。瑞希は鞄の中からつい先程まで眺めていた絵葉書を取り出すと亜沙美に手渡した。亜沙美は手に取るとすぐに、 - 32 -
「あ、水彩画ですね。
へー、色がきれい。 あ、エアメールじゃないですか。すごいすごい」 と言って、ときどき後ろを返し見ながら、へぇ、とかふうん、とか相槌のように呟いて、何か感想を言いたいけれどそれがうまくまとまらずに、何と言っていいか分からないのでとりあえずつないでおこう、という感じだった。 しばらくそうやって眺めているので、瑞希はどんな感想が返ってくるのか、と思い、まるで自分のことのようにどきどきしてしまった。僅か十秒程度の時間が、とても長い時間のように瑞希には感じられた。そのうち、亜沙美は「はい」と絵葉書を瑞希に返し、 「私、絵とかよく分からないんですけど、素敵ですね、ていうか意外です。瑞希さんの友達に、こういう人がいるなんて」 と言って亜沙美は笑った。そして、 「何か、絵本に出てきそうな場所ですね。どこなんですか? ここ」と瑞希に訊ねた。 「知らない」と言うしかなく、瑞希はちょっと困ってしまった。そして、まずそれを説明するためには、最初からきちんと話すほうがいいかも知れない、と思った。 「こいつはね、ずっと旅をしてるんだよ。最初に会ったのはオレが卒業旅行でセブ島に行ったときだか - 33 -
ら、もう二年前か。変なやつだろ?」 瑞希は要約して簡単に話そうとしたのだが、意外にも亜沙美は興味を持ってしまったようで、 「旅? 旅ですか。 えっ、じゃあずっと海外で生活してるんですか。何してる人なんですか? いくつくらいの人?」 と瑞希を質問攻めにしてしまった。先程見せた絵葉書のときとは全く異なる亜沙美のこの反応に、瑞希は驚くと同時に、卓也に対して微かな嫉妬を覚えた。だが、その嫉妬はなぜか不快なものではなく、むしろ好ましいもののように感じられたのが不思議だった。それは、瑞希が卓也に対して抱いている好意を亜沙美がそのまま受け止めて、全身で肯定し、共感してくれたような、そういう印象を受けたからなのかも知れなかった。瑞希は、好奇心に満ちた亜沙美の眼差しを見て、これまで以上に亜沙美に対して親近感を持った。 「じゃあ、最初から話そうか」 瑞希はそう言うと親しみのある微笑を浮かべた。 - 34 - ← 1〜17頁 | ↑ページトップ | 35〜41頁 → | |