ホーム > 小説 > ある日の春風




 卒業旅行中に卓也とセブで出会ってから、その旅行中での出来事などを一通り話し終えると、瑞希は一息付いて亜沙美の様子を見た。話している間、亜沙美はずっと、へぇ、とか、はぁ、とか、そうなんですか、と相槌を打ちながら聞いていて、それは仕事を教わるとき以上に真剣な様子にも感じられたので、瑞希は多少呆れた様子でもあったが、またそれだけ興味を持ってくれていることが嬉しくもあった。
 亜沙美は二、三度軽く頷いた後、口を開いた。
「なるほどねぇ。
 でも、何か、かっこいいですね。自分の力だけで生きてるっていう感じが。人間、どこで何しても、何とかなるってことですよね、すごいなぁ。
 私、今ちょっと勇気を貰いました」
 そう言うと亜沙美はにっこり笑って、瑞希の前に手を差し出した。また絵葉書を見たいのだろう、と瑞希は理解して、手に持っていた絵葉書を再度亜沙美に手渡した。亜沙美は、それを先程と同じようにいろいろな角度から眺め、裏返したりしていた。勇気を貰った、という亜沙美の言葉が瑞希のなかで反芻していた。自分もそうかも知れない、と瑞希はぼんやり考えたが、しかし、とすぐさまその考えを否定して、彼女は卓也の人そのものを知らないからそう思うんだろう、と思った。確かに、瑞希も卓也という人間を認めてはいる。しかし、亜沙美が思って
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いる卓也と、現実の卓也とは明らかに乖離していて、多少美化されていると瑞希は感じていた。実際に瑞希が卓也と一緒にいた間に、瑞希が感じていたのは、その年齢に相応しくない無邪気さと、物事に動じない落ち着いた物腰、その普通なら相容れないものをどちらも持っている不思議な男、というものだった。当時から卓也は気の向くままに移動していて、その様子に頑張っている、という感想は当てはまらないように見えた。むしろ、不安すら覚えてしまうほどだ。しかしそういう微妙な人物像をここでの少しの会話の中だけで完全に理解することは不可能だと瑞希は分かっていたので、そういう亜沙美の持つ美化された卓也像を修正するべきか、それともそのままにしておくか、それを判断しかねていた。
 その間も、亜沙美は手にした絵葉書を眺めながら、卓也の人物像をあれこれと想像して楽しんでいた。
「瑞希さん。卓也さんって、芸能人に例えると、誰に似てますか?」
 突然、亜沙美が訊ねてきたので瑞希は面食らった様子で、
「芸能人?
 ええっ。誰なんだろうなぁ。オレ、あんまり詳しくないしなぁ。亮ならうまいこと言ってくれそうな気もするけど。考えとく」と言って逃げることにした。
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「ええーっ、そんなぁ。
 適当でいいですよう。やっぱりアレですか、旅人って感じの、ガタイのいい人なんですよね、きっと」
 亜沙美はどうやら、登山家か何かと勘違いしているようだった。瑞希はまず、亜沙美が言った、『旅人』というイメージを払拭する必要があると思った。亜沙美の考える旅人とは、おそらく社会から隔絶した場所で野外活動をするようなアウトドアなイメージで、一般的な人が持つような、大きめのバックパックを背負っていて、旅慣れた旅行者、というイメージとは一線を画すもののようだった。そこで、どうやって説明するべきか、と瑞希は考えながら話した。
「いや、全然。
 どちらかというと痩せてるんじゃないかな。亜沙美ちゃんはさ、多分、テント張って野宿するようなのを想像したんじゃないの」
「ああー、そうですねぇ、そんなイメージがありますね、はい」
 亜沙美は軽く手を叩いて頷くと、
「あのー、あれですね、骨付き肉をこうやって」
 と両手でちょうど野球のバットを持つような握り方で横に構えて、
「たき火で炙ったりして、ワイルドにガブッ、て。そういうのじゃない、んですよね」
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 亜沙美はそう言って、ふふ、と笑った。どうやら、瑞希が言いたいことが何となく分かったらしい。
「どこの原始人だ」
 と瑞希は軽く突っ込みを入れて、
「そういうんじゃなくて、普通の旅行者だよ。いや普通じゃないか。ちょっと変わってるけど、まあ旅先で出会う日本人なんて大体みんな少し変わってる奴らだからな」と、言ったものの、瑞希はそれが強がりだと気付いていた。
「写真とか持ってないんですか、そのときの。今度見せてくださいね」
 瑞希は曖昧に頷いて苦笑した。
「一枚くらいはあったかも知れないけどね。実家に置いてきてるしなぁ、ま、何かのついでに取ってきたら、見せてもいいよ」
「はい、楽しみにしてます。
 でもあれですね、手紙だけでよく続いてますよね。瑞希さんはほんとマメだなー、って思います」
「そうでもないよ」
 瑞希は少し照れたように謙遜して、僅かにうつむいた。手紙を書くことは特に苦ではないし、書けば返ってくるのも分かっているので張り合いもあった。しかし、一番の理由は、卓也との関係を繋げておきたいという思惑があるからなのだ。だが、それを知られることは、瑞希にとって耐え難いことで、
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瑞希はどうしてもこのことを悟られることなく、卓也と自分との正確な距離と、心理的な距離を合わせるように調節しながら、亜沙美に話さなければならないのだった。それは、嘘をつく、ということではなく、偽る、ということであった。自分を偽り、相手との関係を偽り、そして相手への印象をも偽る。それは、自分に関わる全ての情報を管理すること、だと瑞希は思っていた。対立したり、不快感を感じたりするようなもの、人間関係にそういう負の要素は無いほうが良い。相手に悪い印象を与えないためにも、有害となるべき情報や性癖などは隠すべきだ、というのが瑞希の持論であった。その裏には、もちろん、瑞希の必要以上のプライドの高さや、管理するという優越感、そして彼の感受性の高さから来る、弱さがあった。
「またまた。謙遜しちゃって。
 瑞希さんはマメです。女の子だったら人気者ですよ」
 亜沙美はそう言ってすぐ、あっ、と口を塞いだ。瑞希が、女性のような自分の名前にコンプレックスを持っていることを知っていたからだった。瑞希も、一瞬ぴくりと反応したが亜沙美の動作で彼女の考えが分かったので気にしていない風を装い、そのまま聞き流した。
「急ぎの連絡取りたくても、電話もできないからなぁ。ほんと、便利になったよ。携帯ってまさに革命
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だよな」
「瑞希さんはポケベルの時代より前ですもんね」
 亜沙美は、うふふ、とからかうように笑った。
「私は、高校のときはポケベル全盛でしたけど、ポケベルすら無い学生生活って考えられなくないですか? どうやって彼女とかと連絡取るんです? 家電ですよね、やっぱり」
「そうだよ。それしかないじゃん、ポケベルだって初めて持ったの、大学のときだぜ? 持ってる奴もそんないなかったような気もするし。
 って、何か話してるとオレ達すごい年代差がある気がするけど、五つしか違わないんだよなぁ。ポケベルからピッチ、携帯って来るまでの時間があっという間だっただけでさ」
「私、ピッチですよ」
 と、亜沙美はここで口を挟んだ。
「あ、そう。
 この辺電波どう? ちゃんと入る?」
 瑞希が訊ねると、亜沙美はバッグからピッチを取り出して確認した。
「はい、良好ですよ。絶対にピッチのほうが電波良いですよ。携帯は高いだけですって。あ、せっかくだから瑞希さんの番号教えてください」
 亜沙美はバッグから出したついでに、瑞希の番号を登録しようと思った。いつも仲良くしているが、結局は仕事場での関係であるから、個人的に連絡を
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取ったりすることはこれまで無かったのだ。もちろん、今ここで番号を聞いたところで、おそらく連絡しないだろうと思ったが、目の前に電話を出しておきながら聞かないのも、なんだか失礼な気がしたのだった。瑞希も、それは分かっていたが別に教えない理由もないし、知っていたらいたで緊急時に知っていて良かったと思うだろう、と思った。
 瑞希は携帯を取り出すまでもなく、自分の番号を暗唱した。偶然、とても覚えやすい番号だったので、苦もなく覚えてしまっていたのだった。瑞希の口に合わせて、亜沙美は指を動かして、登録すると、そのまま通話をしてすぐに切った。一瞬、瑞希の胸元で音が鳴った。
「かけときましたから、ちゃんと登録しといてくださいね。
 あ、私そろそろ行きますね。瑞希さんはまだですか?」
「オレは一時半までだよ」
「そうですか。まだ少し時間ありますね。じゃあ、ゆっくりしててください」
 そう言うと亜沙美は立ち上がって歩いていった。途中で一度振り返り、笑顔で手を振った。瑞希もそれに答えて手を振り、その場から彼女を見送った。
 それにしても、と瑞希は思った。卓也のことを話していなかったとは意外だったな、思い込みっていうものは恐ろしいな。何を話して、何を話していな
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いかを正確に把握していない証拠だ、これは反省しないとな、情報の管理がきちんと出来ていないということだからな、オレも記憶力が鈍くなったかな。もうそんな歳か? まさか。やばいな、いやそうじゃないだろ、亜沙美ちゃんに甘いだけだ、ああ、それがやばいんだよな、ちょっと内側に踏み込ませてしまったか? 危険だな。あと半歩分、修正するか。自然にな、気付かれないように。おしゃれな卵焼き。すごい発想だ、やっぱり天然なんだろうな、しかし鋭い娘だ、要注意。それより卓也。こんなに食い付くとはなぁ。あんたほんとにすごいな、何であんな人間がいるんだろう。けどオレは卓也にはなれないな。無理に自分を作っても楽しくない。自然に計画的に作らないとすぐに破綻してしまうよ。認識しなければならない、カリスマ性、そんな実態の分からないものが本当に存在してしまうという事実。自分で経験していなければ到底理解できないよ、その理屈を知りたいものだな、今回のことでそれは本人を知らなくても影響を持つという事が分かった。異常だ、理不尽だ。あれは才能とか経験とかそういう類のものではない、元々そこにあるものだ、生まれ持った素質とでもいうか、まあそういうものだろう。ちっ。でも亮、あいつはまた違うみたいだな、本当に何とも思っていないのか? そういうフリをしている、はずはないな。あいつに限って。ラムコークはどうでもいいんだよ、今日はビー
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ルが飲みたい。とりあえずどうするか。一人で入れるところで落ち着ける場所だろ、飯も食えるところじゃないとな。『Y』か。あそこいいな、近いし。うまくカウンター空いてればいいけどな、空いてなかったときのために一応第二希望も決めとくか。『Y』の近くだろ、うーん、えーと。あ、この間覗いた店、名前知らないけどあそこいいかもな、『Y』からだったら歩いて行けるだろ。決定。
 瑞希はほっとした、晴れやかな顔になって、もう今すぐにでも仕事を終えて帰りたくなった。仕事が終わるまでの残り時間を早送りしたい気分だった。
 不意に、瑞希の頭上で葉がざわざわしているのに気付いた。少し風が強まったのだろうか、と瑞希はぼんやり考えた。
 春の天気は変わりやすいっていうしな。桜か、この時期ってどうして雨が降るんだろうな。晴れたり曇ったり、毎日目まぐるしいよ、まるで世界情勢みたいだ。は、世界情勢か。こうしている間にも人が産まれたり死んだり暴動が起きたり平和式典を始めたり、ってか。三秒に一人の孤児が餓死しています、募金にご協力ください。そんなこと言われてもなあ。悪いけどこっちもぎりぎりなんでね、そういうことはどこかのお金持ちに言ってくださいよ。仕方ないだろう、餓死するのはオレのせいじゃないんだから。おしゃれな卵焼きでも食べる? 届く頃には腐ってるだろうけど。人生は優しくない。優しく
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ないんだよ、ちぇっ、目眩がしそうだ。で、どこの桜が咲いてたって言ったかな。水路沿いのやつかな。絵を描いてたって。まあ大したことないだろ。しかしどうしてみんなそろいもそろって桜桜桜なんだろうな、花見なんて馬鹿げてる。ただ酒飲んで騒ぎたいだけだろうが、かわいそうな奴らだ。他人の迷惑なんて考えないんだろうな。迷惑ではないのか、もしかして。そんなことはない、よな?
 瑞希は何となく不安になり、腕を組むとベンチに深く座り直して姿勢を正した。大衆の連帯する行動を小馬鹿にしていながら、自分だけがその枠からはみ出ていると不安になる、それは明らかに矛盾している心理だが、瑞希自身はそれを横並びで出る杭は打たれる、という学校教育のせいだと信じて疑わなかった。要するに、都合の良い解釈をして自分に否がないのだと思っていたかったのだ。
 そうだ携帯。忘れる前に登録しておこう、えー、あ、さ、み、と。あれ。どういう漢字だっけ? 確か、五文字の名前だったはず。亜沙美、これか? それとも亜佐美? 『さ』が微妙だな、いや多分、さんずいだ。亜沙美、これだろ。上は何だったか。高橋、じゃなかったか。あれーっ。何だったっけ、困ったな。まあいいや。『亜沙美ちゃん』で登録しよう。
 瑞希は亜沙美の番号を携帯電話に登録すると、まだもう一件の着信があったことに気付いた。あれ
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っ、気が付かなかったよ。亮からだ。さっき話に夢中になっていたから。何だろう。かけてみるか。まだ休み時間だといいけど。
 瑞希は時計を見て、おそらくもう昼休みは終わっているだろうと思った。だから、とりあえずかけてみて、すぐに出なかったら仕事が終わった頃にまたかけ直そうと思いながら、電話をかけた。亮はすぐに出た。
「あ、亮。ごめん、さっき電話したろ。何か用か」
「用ってわけじゃないけどさ。
 お前さ、今日なんか予定ある?」
「いや、特に」
 瑞希は、一人で飲みに行こうと思っていた、とは言わなかった。もし、二人で飲もうというのであれば誘いに乗るが、合コンの人数合わせなら断ろうと思った。
「じゃあさ、飲みに行かね? オレもたまには男同士でさ、ゆっくり飲みたいわけよ。分かるだろ、そういうの」
「はいはい、分かる分かる」
 瑞希はそう言いつつも、内心はとても喜んでいた。しかし、自分も今日は飲みに行きたかったとは言いたくなかったし悟られたくもなかった。
「じゃあ何時にどこにする? オレちょっと遅くなりそうなんだ、瑞希は?」
「オレはいつも通りだよ」
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「さっすが。
 いいなー、オレも残業のない仕事にすればよかったなぁ」
「じゃあ今から公務員にでもなるか? そんなのつまんないって言ってたの誰だよ」
「オレー。
 いやだってほら、この天才的な語学力を生かさないのは才能の浪費っていうか何ていうか」
「かっこいいからだろ、合コンのときに外資系って言うのが」
 瑞希が呆れた口調でそう言うと、亮は笑ってごまかした。
「さて、どうするよ。遅くなってもいいなら、仕事終わった頃また電話するよ」
 めんどくさいな、と瑞希は思った。このままどこかの店で待ち合わせるにしても、亮が仕事終わって、そこから移動して来るまで考えるとずいぶん待たされるな。一度帰るか? だったら最初から一人で飲んでたほうがいい。オレが動けばいいのか。そうするか。
「いいよ、オレがそっちまで行くよ。どうせ電車一本だしな、オレが行ったほうが早いだろ」
「ほんと?
 そうだなぁ、じゃあ『U』で待ち合わせようぜ。前に一度行ったじゃん、ほら、あのときだよ。ナース合コン」
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「ああ」と瑞希はそれで分かったようで、うんざりした様子で吐き捨てた。思いだしたくないことを思いだして後悔しているようにも見えた。
「あのときの店か。分かった、じゃあ仕事終わったら直行するよ。じゃ、そういうことで」
 とりあえず予定が決まったので、そこで瑞希は電話を切ると、図書館に向かって歩き出した。
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