ホーム > 小説 > ある日の春風




 結局、作品の展示が終わったのは、夕方の六時近くになった頃だった。途中から暇になった彩子は、カメラを持ってこなかったことを何度も後悔した。やがて山口は、ぱん、と手を叩き、
「よし。
 もういいや、そこまで細かく考えても仕方ないもんな。終わりにしよう。
 彩子、悪いけど最後に掃除手伝ってくれよ」
 山口がそう言うと彩子は待ってましたとばかりに、にっこり笑って「はーい」と返事をしながら、散らばっている布やテープなどを片付け始めた。
「卓也はね、絵を描いているとき、何かあったらすぐ移動できるように片付けやすい広げ方をするんだって。近くの店の人とか警官とかに注意されることが多いらしいんだ」
 彩子は突然、以前純と電話で話したときに聞いたセリフを、そのまま純の声で思いだした。あの卓也が片付けだって、と彩子はそのときに純に言ったことと同じことをもう一度思って、くすっ、と思いだし笑いをした。あんなに適当な片付けしてた奴なのにね。変わるもんだ。でも、まあ、屋外で描くとやっぱり、片付けやすい方法を勝手に学んでいくんだろうな、その点あたしのカメラなんかは気楽なもんだなぁ。機材多いときは辛いけど。ん。そうだ、明日、ここの受付ってどうするんだろう。手伝ってあげようかな。
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「ねぇ、ヤマさん。
 明日、受付やってあげようか?」
「いいよ、それはありがたいけど。もう決まってるから。客として来てくれよ」
「そっか」
 彩子はがっかりしたような、ほっとしたような、どちらともとれる曖昧な言い方をした。
「ひとりで準備してるから、明日もひとりなのかと思ってた」
 彩子がそう言うと、山口は笑った。
「わはは。違うよ、入れ違いで帰ったんだよ、朝のうちは何人か大学のやつが居たんだ。どうやってひとりでこの枚数をここに運ぶんだ、車もないのに。どう考えても無理だろ」
「うん、確かに」
 山口に指摘されて、そのことに気付いた彩子は、照れ笑いをしてごまかした。
「さて」と山口は時計を見た。もう五時五十分になっていた。
「彩子、六時にはここを出ような。ちょっと前祝いだ、軽く飲みに行こうぜ」
「はぁい。じゃ、急がないとね」
 彩子はそう言ってにっこり笑うと、掃除を再開した。とは言っても、もうほとんど終わっていて、山口は自分の荷物を、彩子はごみ袋を、それぞれまとめていて、それはもうここを出る準備と言い換えて
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もよかった。
「彩子も帰り電車だろ。
 どこがいいかな。あそこにするか、前に一度行ったろ、『U』って店。覚えてるか?」
 彩子は軽く頭をひねり、すぐに思いだしたようで、「あぁ」と嘆息を漏らした。そこは、まだ二人が学生だった頃、学祭の打ち上げで一度だけ、行ったことがある店だった。そのときはほとんど貸し切り状態で、そのとき誰がいたのかも分からないような状態だったし、彩子は先に帰ってしまったので、実はそのときのことも、店のことも、よく知らないのだった。ただ、入口が階段になっていて、店が地下にあることと、なんか観葉植物がいっぱいあるなぁ、と感じたことだけは覚えていた。しかし、山口の口振りからすると、彼はその店をよく利用しているらしいことが伺えた。
 二人は部屋を出ると、そのままビルを出て歩き出した。外はまだ少し明るさが残っていて、大分陽が伸びたな、と彩子は感じた。肌寒くはなかったが、暖かいと感じるほどではなかった。花見はまだもう少し先だな、と彩子は思った。そして、ここに来る途中見た桜のことを思いだして、
「ね、ヤマさん、来るとき桜が咲いてたでしょ、見たァ?」と訊いた。
「ん? そうか。
 いや、そんな余裕なかったな」
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「まあねぇ。そうだよねぇ。
 あ、じゃあ、見ていこうよ。ね、そうしよう」
 彩子はそう言ってひとりで先に道路を渡って、行きに通った公園の方に向かった。山口は返事をする間もなく、その後ろを追いかけるしかなかった。公園では、桜沿いに提灯がかかり、もう明かりも点いていた。そのため、まだ六分から八分咲きだが多くの人が集まってきていた。そうだ、今日は金曜日だもんね。みんな花見なのかな。花見したいなぁ。あ、写真。明日はカメラ、絶対に持ってこよう。せっかくだからみんなで写して、卓也に送ってあげるんだ。
「お、ほんとだ。
 大分咲いてんだな」
 ようやく彩子に追いついた山口は、嬉しそうにそう言うと、
「明日、終わったら打ち上げは花見にするか、みんなもそのほうがいいだろ」と言って、それから彩子に「な」と同意を求めた。
「やったー。あたしもね、それを考えてたんだぁ」
 彩子は嬉しそうにそう言うと、小さくぴょこんと飛び跳ねた。そして、今日、昼に感じた直感は正しかった、と彩子は思った。そして一瞬、純のことを考えて、それをすぐに否定した。いきなり来いなんて言うのはちょっと、ねぇ。学校もあるだろうし。聞いてみようかな。聞くだけならいいかな。そう
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ね、店に着いたら電話、してみよう。彩子は少し胸がどきどきしているのを感じた。
 公園に沿って歩いていると、当然というか、意外というか、多くの恋人たちが桜を見に集まっているので、歩いていると何度もすれ違った。そういうのをずっと見せつけられているせいもあるのだろうと彩子は感じたが、それだけではないことも分かっていた。
「お、そういえば」と山口は突然それを思いだしたようで、
「実は、卓也から電話があった」と言った。
「うそ」と彩子はびっくりして、
「何で何で。
 もう、もっと早く言いなよ、そういうことは。で、何か言ってた?」
「いや、特に。ああ、でもオレは個展のこと言ったぞ。やったじゃん、おめでとう、だとさ。
 いつだったっけ。もう二週間くらい前だな。すっかり忘れてたよ」
「ねぇ、それ、何で電話してきたのかな? 不思議じゃない、なんなの」
 彩子は少し不機嫌そうに言った。自分にだけは電話がなかったからだ。おそらく、純のところにもかけているだろうし、どうして自分だけ、ないのだろう。彩子はわけが分からなかった。嫌われてる? まさかね、避けられてるだけ? いやいや、それが
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嫌われてるってことだから。
 彩子はじっと考え込んでしまった。山口は、彩子の考えていることが分かったので、しばらくその様子を楽しそうに眺めていたが、そのうち気の毒になったので教えてあげることにした。
「彩子、お前いつも手紙送ってるだろ」
 彩子は頷いた。
「で、手紙読むと大体分かるから、それで充分なんだって。聞くことないから電話しないだけみたいだ」
「は?」
 彩子は呆然としてしまった。聞くことないからって、そりゃあんたはそうだけどこっちはなーんにも聞けないじゃないの。
「でもな、それだけじゃないんだよ」
 山口はくっくっと笑った。
「直接話すより、間に『誰か』が入ったほうが彩子にはいいんじゃないか、って言ってたよ」
 彩子は自分の顔が熱くなるのを感じた。話のネタにしろ、ってことね、はいはい。もう、何考えてるんだろ、そういう関係じゃないんだけどな。
 あ、え?
 それはあたしが、じゃなくて、え? え?
 そういうことなのかな?
 ええっ、うそぉ。
 これまでずっと彩子は、そういう方向から考えた
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ことが無かったので、この発想に純粋な驚きと期待を感じた。
 桜と提灯の明かりの終点が見え、公園の終わりが近付いてきた。この先にはもう地下鉄の駅があり、これから向かう『U』はここから一駅先なので一旦電車に乗ることになる。時間も時間なので、相当混み合うだろう、と予想すると、荷物を持たずに軽装で来たことは正解のようにも思えた。彩子は、ふと、後ろを大きく振り返って、今歩いてきた道を眺めた。今さっきよりも人が増えたような気がした。
「今日は人多いな」
 山口は彩子の思いを察したのか、そう呟いた。彩子は、うん、と言いかけて、携帯電話が鳴ったので反射的にそちらを優先した。
「ヤマさん、ちょっとごめんね。
 もしもし。あ、純くん?」
 彩子はちらっと山口を見た。山口はにこにこ笑って、どうぞどうぞ、と小声で囁いた。
「うん、どうしたの? 久しぶりだよね。元気ィ?
 あたし? 元気よ。声で分かるって? 失礼ね。あのね、今桜の下にいるんだよ。
 ううん、花見じゃないけど。大分咲いてるよ。まだ満開じゃないけど、そっちは?
 ふうん。じゃ、こっちのほうがちょっとだけ早いんだね。え、あんま変わんない? アハッ、まあね。あ、あとねぇ、今ヤマさんも一緒だよ。珍しい
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でしょ。
 そうそう。明日。よく知ってるね、卓也に聞いたの? へー。うんうん。……ね、変わろっか? はーい」
 と、彩子は一旦電話の口を手でふさいで、はい、と山口の前に突きだした。
「純くんがね。変わって、って」
「あ、そう。ありがと。
 もしもし。おう、久しぶり。
 わはは、そりゃどうも。なんだ、そうなのか。え? 卓也に頼まれたの? おめでとうって言っとけって? なんだ、そりゃ。
 ああ、そうだよ。一緒に準備してた。え?
 そりゃお前、大変だよ。彩子が手伝ってくれて助かったよ。
 うんうん。だな」
 と、山口は彩子に目配せをして、電話の口を手で押さえながら、
「ああ見えて彩子は気が利くってさ」
 と言ってまた電話に戻った。
「で、明日は仕事か? 先生だってな、さっき彩子に聞いたよ。正直、想像できんな。
 わっはっは。
 卓也にも同じこと言われたのか。明日、来いよ。な。
 うんうん。それでもいいよ、どうせ片付けとかで
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夜までいるんだから。あ、ちょっと待て。今どこにいるんだよ。学校? そうか、そりゃそうだ。お前さ、『U』って店知ってるか。知ってる? そりゃ話が早い。これから彩子と飲みに行くんだけどよ。時間あるなら来いよ。え? ちょっと遠い? 学校ってどこなんだよ」
 山口が半ば強引に純を誘っていることに、彩子はびっくりして山口の袖を引っ張った。しかし、山口は動ずることなく、話を続けている。
「ああ、そっちか。うんうん。ちょっと待て。じゃあ、『Y』は? 知らない? 駅前にあるんだよ。違う、反対の。そうそう、その隣か後ろ辺り。おう、待て。今かけ直す。一旦切るぞ」
 山口は電話を彩子に渡しながら、
「純も呼んでみた。場所変更な、いいだろ?」
 と言って時計を見た。
「電車の時間見て、集合時間決めるんだ。『Y』だったらここからでも乗り換え無しで行かれるし、純も学校から直接来られるみたいだしな。
 うーん、そうだな、七時待ち合わせか?」
「あたしはどこでもいいよ。明日休みだし。でもさー、タイミング良すぎない? 何か怖いくらいだよね」
「何か、卓也からの伝言みたいでな、前日に彩子に電話しろって言ったらしいんだ、どうせ手伝いに行くだろうからって」
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 彩子は感心したように、へぇ、と言った。
「なぁんだ、卓也の代わりに電話してきたんだ、でもよく分かってるよね、今日こうして手伝ってるなんてさ。拍手」
 ぱちぱち、と彩子は自分で拍手をして、あはは、と笑った。その様子は、やっぱり嬉しそうだった。
「あれ? でも『Y』って、あれだよね、ほら。卓也の友達のさ、一コ上の美人の人。何て言ったっけね、名前忘れちゃった」
「オレが知るかよ。で、その美人がどうしたの。その店で働いてるのか」
「そうじゃなくて、住んでるのが、その辺だったって話。何回か、卓也と三人で会ったことがあるんだよねぇ。でも学生の頃だからさ。今は違うかも知れないけど」
 山口は興味がないのか、ふうん、と曖昧に相槌を打って、話題を変えた。
「純と会うのは久しぶりだな。卒業してから初めてじゃないか、もしかしたら。彩子はどうなんだ、たまには会ったりしてたんだろ」
「だーかーらー、電話だけ。
 さっきも言ったよ」
 彩子はわざとらしく苛々したようにそう言って、その後で、
「んー、最後に会ったのは一年くらい前かな」と言いながらにこにこ笑っていた。
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 歩いている間に丁度信号が変わったので、二人はそのまま交差点を渡り、地下鉄の階段を下りて駅の中に入った。
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