ホーム > 小説 > ある日の春風




 予定通り夕方の六時前に仕事を終えた瑞希は、一人で駅前を歩いていた。今日行く予定にしていた『Y』の前を通りかかると、歩を弛め店内の様子を窺った。瑞希の予想に反して、カウンターどころか、テーブル席もほとんど空いていた。まだ時間的に早いからな、こんなもんか。一杯飲んでから行っても充分間に合いそうだけどな。でも飲み始めると移動するのがめんどくさくなりそうだ。まあ、楽しみはとっとくさ。瑞希は空いている店内を横目に、満足げに微笑んだ。
 昼間は暖かかったが、陽が落ちるとやはり肌寒くなった。図書館を出た頃はまだ陽が僅かに残っていたが、十分も歩いた今はもうさすがに暮れていた。歩いたのは瑞希の気まぐれで、最初いつものようにバスに乗るつもりだったが、昼に亜沙美が言った桜のことを思いだして、時間もあることだし、桜を見るついでに歩いてもいいかな、と突然思い付いて歩くことにしたのだった。瑞希自身にも、その行動は意外なことだった。元々、瑞希の行動は慎重なものなので、こういう衝動的な行動は滅多にないことなのだ。しかし、歩きながらいろいろなことを自由に思索するということは楽しかった。それは心の余裕とも相まって、とても心地良く、瑞希を恍惚とさせた。
 やっぱり身体を動かすのって大切だな、と瑞希はしみじみ思った。そういえば運動なんかしばらくし
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てないな。これを運動と言って良いか分からないけど。何か始めてみるかな。何を? ジョギングでもするか、近所のおばさん達に混じって? あーら倉本さんちの。こんばんはぁ、いつから走ってるの? いいわねぇ。お母さんはお元気? 今度一緒に走りましょうって、ぜひね、誘ってみて。
 なんてこった。どうしてそんなに群れるのが好きなんだろう、走るのなんか一人でするもんだろうに。オレは言ってやる、ふざけんな。まさか。言えないっての。言ったらどうなるか。あーら奥さん。知ってる? この間、倉本さんちの長男がねぇ、って。一日で広まるだろうな。そしてオレ達家族は村八分ってとこか。オレは気にしないけどな。親まで巻き込むのは、な。不憫だよな。ん、この時間でも噴水動いてるのか。暗くて濡れちゃうんじゃないか、壊れてるのか? おいおい、ちゃんと管理くらいしとけよな。
 瑞希はそのまま駅前ロータリーの噴水前を通り過ぎて、駅構内に入っていった。
 切符買わなきゃ。小銭、あったかな。あった。こういうときに使わないとな、貯まる一方だ。財布がパンパンになっちまうよ。お、電車来たな。今から走っても間に合わないだろう、次でいいや、別に急いでないし。
 駅全体が地響きのような轟音を立てていた。それは無機質なタイル張りの構内に反響して、二重三重
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に響いていた。どうやら停車せずに通過したようだ。瑞希は焦る様子もなく、通過していく電車の音を聞きながら切符を買うと改札を抜けた。ゆっくり歩いている瑞希を走り抜いていく幾人かの人を見ると、もうすぐ電車が来るらしいことが分かった。周りが急いでいるのを見ると、それを気にして自分も急いで次の電車に乗らなければいけないような気がしたが、それでも自分は急いでいない、と言う天の邪鬼な自分もいて、瑞希は走ることはなかったが気持ち足早にホームへ続く階段を昇った。
 ホームに着くとすぐ、瑞希は次の電車の時刻を確認した。三分後に到着予定だった。瑞希は急ぐ必要もなかったことが分かると、少し悔しくなった。ちぇっ。何か損した気分だな、普通に歩いてれば到着時間ぴったりだったのか。時間あるし先頭まで行くか、仕方ない。やっぱり今日はみんな薄着だな。コート着てない人もいるよ。いや、それはまだ早いだろう。夜は寒いぜ、帰りに寒くって後悔すると思うぞ、それは。ああ、今もう帰るのかな? こんな時間に? 金曜の夜だろ、今日は。さっさと家帰って家族サービスかしら。律儀だねぇ。人生あっという間だぞ、限られた自分の時間は大事にしなよ。まあ、赤の他人に説教されることでもないけどさ。
「人生はもう始まってるんだぜ」
 はっ、そうだよ卓也。始まってるんだよな。瑞希は、不意に卓也が言った言葉をそっくりそのまま思
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いだした。
 遠くから電車の音が聞こえてきた。瑞希はそれをじっと見つめながら、近くの列に並んだ。そこは先頭車両だった。ドアが開き、流されるように乗り込んだ。降りる人はほとんどいなかったので、座ることは出来なかったがそれほど混んではいなかった。瑞希は乗ってすぐのドアに寄りかかり、ほどよい揺れを感じながら、走りすぎていく電灯に照らされた街並みをぼんやり眺めた。瑞希は卓也のことを思いだしていた。
 
 セブで数日過ごすと、卓也とも大分仲良くなり、しかも地元がほとんど同じであるという奇妙な偶然がより親しみを与えた。
 昼間、卓也は一人で絵を描いていて、瑞希は亮と共に行動していたので、夜になって宿に戻ってからが卓也との時間だった。亮はその場に居たり居なかったりして、元々海外に来てまで日本人と居たくないと思っている部分があり、自分たちと同じように長期滞在している外国人と話すことのほうが多かった。
 この日も、亮は仲良くなったイギリス人と飲みに行ってしまい、瑞希と卓也は二人で話をしていた。
「まさか、こんなところで地元の話をするなんてな。面白いな」
 卓也はそう言って笑った。
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「本当だよなぁ、すごい偶然だと思う。今度帰ってくるときは絶対に連絡してくれ、飲みに行こうぜ」
「覚えてたらな」
 卓也は悪戯っぽく微笑んだ。そして、
「瑞希はもう仕事決まってるんだっけ?
 やっぱ近くか?」と訊ねた。
「ああ、そうだよ。自転車でも行けるよ、地元の図書館だから」
 瑞希がそう言うと、卓也は一瞬驚いたような表情を作って、
「ホントかよ。
 じゃ、司書か、へぇ。
 何だかなぁ。オレの周りはみんなそういうのばっかだな、先生に司書か。成程ねぇ」
 と意味深に、呟くように言った。瑞希はその意味を分かりかねて、
「みんなって?」と訊ねた。
 卓也はふふっと軽く笑うと、何か思いだしながらゆっくり口を開いた。
「それが笑っちゃう話でさ。
 オレの親友がさ。先生になるんだと」
「へえ」
 瑞希はあまり関心が無いのか、そう返した。
卓也は予想通りの反応、とばかりににやにや笑うと、
「図書館に来るかも知れないぞ、オレが連絡してお
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くから」
 と言って瑞希の肩をぽんと叩いた。
「え、なに、近いの?
 地元の友達かよ?」
 瑞希は驚いた。頭のなかでは理解していたつもりだったが、こうやって現実に接点を確認すると、本当に地元の人間なのだと実感できた。
「いやいや、冗談だよ、それは無いだろうけどな。
 でも、近いことは確かだな」
 卓也は笑いながら、もう一度瑞希の肩をぽんと叩いた。
「びっくりさせんなよなぁ。
 でも、社会人になったらもうこんなふうに旅行とか出来ないんだろうな。長く休み取れないだろうしな。ま、それでも仕事があるだけまだマシかも知れない。人生これからが本番って感じなんだろうな。それを認識しないといけないな。
 不本意だけど」
 瑞希は卓也に言うというよりも、自分に言い聞かせるように言った。卓也は、最後の『不本意』ということばがやけに引っかかっていたが、そこに秘められた瑞希の気持ちが何となく分かったので、そのことには触れないことにした。
「人生これから、か。
 オレもそう思ってたな。今は人生の助走段階で、この先近い将来に、自分の人生の本番、っていうの
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かな、そういうのが来るんだと思ってたんだ」
「今はもう始まってる?」
「そうだな。
 っていうか、最初から始まってた。自分では認めたくなかったのか、それとも認識できなかったのか。それは分からないけどさ、旅を始めてから、いろいろ見てきたし自分を見つめることも多かったし。
 逃げてたんだ、オレ。
 学校でさ、周りの奴らの才能とか。自分の進むべき道とか。あと、父親からも。
 あ、オレの親、離婚しててさ。まあいいや、それは。
 そう、逃げたかったんだ、きっと。今なら分かる、っていうか認められる。周りにはいろいろ言ったけどさ、結局、オレが旅を始める切っ掛けは、逃げたかったからなんだよな。少し旅に出て、帰ってきたら自分の人生を始めよう、とかぼんやり考えてた。
 でも、日本を離れてさ。絵を描いて歩いてるうちに思ったんだ。自分の人生は、地平線の向こうにあるんじゃなくて、今、ここ、この足元にあるんだよ。こういう日々の積み重ねがもう人生なんだもんな。だから瑞希もさ、これから、じゃなくてもう始まってんだよ。もう第一コーナーは回ったな。俺たちのさ、人生はもう始まってるんだぜ」
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「成程ね」
 瑞希は卓也の話がとても胸に響いた。確かに、認めたくないのかも知れなかった。まだ始まっていない、と思い込むことで、今の自分が希望する方向に進めていないことに対する不安や焦りを完全にではないにしろ軽減してくれていた。しかし、卓也のことばからそれは逃避だということに気付き、瑞希は考えを改める必要があると思った。
「じゃあ、卓也はもうずっと、これからも、旅をしていくつもりなの?
 もう日本には帰らない?」
 卓也はにこりと笑顔を作り、そのまま肩をすくめて横を向いた。そしてしばらくの沈黙の後、
「うーん、まだ何とも言えないけどな。
 一応の目的地に着いたら、帰ると思う」
 と言って瑞希を見た。その瞳の中には、瑞希が最初にビーチで見かけたときと同じ意志の強さを感じた。だから、瑞希は訊ねずにはいられなかった。
「目的地とは?
 それは一体どこのこと?」
「ハイデルベルク。ドイツの古都だよ。
 哲学の道があるんだ。ゲーテも歩いたんだぜ、オレも行ってみたくてさ」
 
 あっ、ドイツ。ふと瑞希は我に返った。
 そうだ。Dか。Dだ、Dだよ、今卓也はドイツに
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いるんだ。目的地に着いたんだ。帰ってくる。卓也はもうすぐ、帰ってくるんだ。瑞希はその事実に気付き、身震いした。それから気を引き締めた。気を抜くと、顔が緩んでしまいそうだったのだ。
 気を紛らわせようと、瑞希は少し遠くの景色に目を移したが、すぐにビルに遮られて見えなくなった。電車と直角に交わる道路の部分だけ、ほんの一瞬、遠くの宵闇まで見渡せたが、今度は陸橋がそれを遮った。ふと、瑞希は、そういえば電車に乗って、こうやって景色を眺めようとするなんてしばらくしていなかったな、と思った。薄暗い夕方、というよりはもう夜の闇だった。それもそのはずで、もう時刻は六時半を過ぎていて、亮と待ち合わせている店に着く頃には七時になりそうだった。
 ビル。くすんだ灰色の墓石が立ち並ぶ。光る看板、業績まで輝くといいね。うわ、こっちは大渋滞だ。やっぱり電車が一番だよ、ほとんど時間に間違いがない。まあ、満員電車が問題だけどなあ。この時間ならまだ空いてていいな。身体の向きを変える余裕があるもんな。信号待ちの車たち。トンネルだ。さようなら、車たち。私は地下に潜ります。やれやれ。真っ暗だ。窓が鏡のよう。もうすぐ駅かな、これ以上乗ってくるのか。いやだな。みんな降りてくれればいいな。ふん、そんな都合良く事が進めば世の中平和になってるよ。ラブアンドピースだ。愛と平和。すごいぜ、よく言えたもんだ、こん
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な青くさいセリフ。誰だっけな、ジョンだっけ? ジョン。犬みたいな名前だよなぁ、改めて思うと。ほら、ジョン。お手。ダメよ、ダメダメ。ちゃんとしなさい。おやつ抜きよ。ほらほら。けっ、糞野郎だ。なんで餌くれるのに芸を仕込むんだろうな。動物愛護団体に訴えてやるぞ。明るくなった。駅だ。どっち開くんだ? ……こっちか。結構並んでるな、押し込まれちゃうかしら。あと一駅だよな、じゃあここにいるか。この位置死守だぞ。お、そうでもないか。さすが先頭。急いで歩いて正解だったな。先見の明ってやつ? さすがオレ。みたいな。よく言うよ。くだらない。
 そして電車はゆっくりと停車して、ドアが開き、並んでいた人々が乗り込んできた。瑞希の願いとは裏腹に、降りる人はほとんどいなかったが、先頭車両ということもあり、比較的乗ってくる人は少なかった。
 人が増えた分、瑞希は多少の閉塞感を感じたが次の駅までは割と近くて、特に苦を感じることもなく到着し、瑞希はそこで電車を降りた。そしてそのまま改札を抜けて、階段を昇って外に出た。途端に雑踏とざわめきに包まれて、瑞希は街の一部になった。瑞希はうろ覚えながら、亮と待ち合わせをしている店に向かって歩きだした。道を歩いていると、見覚えのある看板など、目印になるものを思いだしてきて、問題なく店まで行けそうだった。
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 やがて目の前に『U』が見えてきた。とは言っても、実際に見えているのは外に出ている看板と、ビルの入り口の階段で、店の場所は地下になる。ああ、ここだ、そうそう。と、瑞希は頷いた。こんな階段だった、覚えてる。でもあんまりいい思い出ではないな、あれは本当に合コンだったのか? 罰ゲームとしか思えなかったぞ。亮の奴、またこの店なんかにしやがって。変なこと考えてなければいいけどな。オレの考えすぎであって欲しいよ、全く。ビールビール。結構歩いたから喉乾いたな。丁度いい感じだ。亮には悪いけど、先に一人で始めていよう。元々、今日はそのつもりだったわけだし。
 階段を下りると店のドアは大きく開かれていて、そこには今日のオススメ品が書かれたボードが掛けられていた。一歩店内に足を踏み込むと、多くの観葉植物が並んでいた。瑞希は以前、一度だけこの店に来たことがあるが、そのときよりもさらに植物が増えている気がした。それらは造花とも思えなかった。試しに、瑞希は近くの葉に触れてみた。軽く爪を立ててみると、葉に食い込んだ。やはり本物のようだった。
 そんなことをしている間に、店員がやってきて席に案内してくれた。瑞希はビールと今日のオススメに書かれていた、春野菜のパスタを頼むと一息付いて辺りを見回した。がやがやと騒がしい話し声と、食器の当たる音がこだまのように響き、僅かに照明
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を落とした店内は人々の笑顔にあふれていた。ひとときの享楽か。アルコールに救いを求めて。ふん。まあ、あれだ、オレも人のことは言えないけどな。悪くはないだろう、こっちは世のため人のために働いてるんだ。こういう楽しみがないとな、鬱病になってしまうよ。公僕だからな、オレは。辛いところだよ。何が? 辛いか? いいや。全く。ゆるゆるの、ぬるま湯だ。あ、あの娘。すげー、大生飲んでる。あんなちっちゃい手で。何かかわいい。もしもし、お嬢さん、未成年がこんなところに来ちゃ行けませんよ。え、違う? 身分証見せて。あっ、すいません、失礼しました。お詫びにおごりますよ、一緒にどうです? 亮なら言いそうだ。あいつならやる、きっと、いや多分。二対二で数は合ってるし。でも、いいね。見込みあるよ、あんた。やっぱ大だろ。なあ。
 瑞希は気持ち微笑んで、こんな些細なことでも気分が軽くなるんだな、と思った。そんなことをしているうちに、ビールが届き、瑞希はジョッキを右手に持ち、左手の指先で軽く弾いて一人で乾杯すると、喉に流し込んでいった。
 ふう。うまい。最高。やっぱビール最高。もう心はドイツ人だよ。へへっ、ドイツ。Dか。ふふっ。楽しみだな、次の手紙。明日には届くかもな。それは気が早いか、明後日辺り。いやいや。郵便局まで行っちゃおうかな。行ってどうするんだよ。待って
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るのか? 頭おかしいだろ、それは。ママー、あの人何? 見ちゃいけません。さ、行きましょうね。何してるの。早くいらっしゃい。見ちゃ駄目って言ってるでしょ。ちえっ。馬鹿にしやがって。パスタまだかな、腹減った。ついでに何か頼んでおこう。そろそろ亮も来るだろうしな。
 瑞希はメニューを手に取り、眺めた。鶏の唐揚げ。軟骨にしようかな。あ、あとサラダか。あいつもしっかり食べるだろう、ちょっと多めに頼んでおこうかな。
 瑞希がメニューに見入っていると、後ろから亮がやってきた。そして瑞希の肩をぽんと叩くと、「おまたせ」と言って向かいに座った。
「なあ、この店、何かやたら観葉植物増えてないか? オレはまたどこぞの森が移動してきたのかと思っちゃったよ」
 亮は席に着くなり、そう言って辺りを見回すと、通りかかった店員を掴まえて、
「すいません、ビールね、大生ひとつ」と注文をした。
 瑞希はそれに続いて、
「あ、あと注文いいですか?
 えーと」
 と瑞希はメニューを指差しながらいくつか注文をした。亮はそれを聞きながら、「いいね」と言ったり「まあ、いいだろ」と言ったりしたが自分ではメ
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ニューすら見なかった。そして瑞希の注文も終わり、店員が下がると、
「だな。オレもちょっと異常だと思ったよ」
 と、最初に亮が言った、観葉植物が増えた、という感想に同意した。しかし、その後で、
「でも、慣れると結構いいよ、この感じ」
 と言って周囲を見渡した。
「そう、そりゃ良かったね」
 亮は全く興味がないという様子でネクタイを軽く弛め、携帯電話を取り出して、
「やっぱり。電波届いてないや。やっぱりピッチに変えようかな、オレ」と不満げな顔を見せた。
「地下だからな、ここ。
 ぷっ、そういえば今日、それとおんなじこと聞いたよ。亜沙美ちゃん、知ってるだろ。あの娘ピッチなんだよ。あの娘もピッチの方がいいってさ」
「へぇ。気が合うね、オレたち。
 今度デートしようって言っといてよ」
「自分で言えよ」
 瑞希は呆れてそう言った。そのとき、亮のビールと最初に頼んだパスタが同時にやってきた。二人はジョッキを合わせ乾杯をした。
「うーん。最初のビールうめー。
 で、亜沙美ちゃんっていくつだっけ?」
「十九だよ」
「十九。いいねぇ、十代かよ。
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 で、お前はどうなの? もうやった?」
「あほか」
 瑞希は苦笑した。亮もからかうように笑ってジョッキを持ち上げた。
「あっはっは。
 でも亜沙美ちゃん、カワイイよな。あーあ、ほんと羨ましいよ。うちの会社、ロクなのいなくてさ。男ばっかりだぜ、華が無いんだよなぁ」
「いいじゃないか。合コンは沢山あるんだろ、ほとんど毎週行ってるじゃないか」
「半分は人数合わせだけどな。
 亜沙美ちゃんみたいな娘、うちの会社にバイト来ないかな。もうオレが何でも教えてあげるのになぁ、もう、こうやって、手取り足取り」
 と、亮はまるでダンスでも踊るように手を動かした。瑞希はその様子から今度は亜沙美の桜を思いだしてしまって、それも含めて大笑いした。
「あはははは。
 話変わるけどさ。いやそんなに変わんないけど、亜沙美ちゃんに、卓也、覚えてるだろ? 今日、彼のことを話したんだよ」
「卓也?」
 と亮は一瞬考えてから、
「ああ、うん、覚えてるよ」と言った。
「昨日、手紙が来てさ。絵葉書の方だけど、その話をしたんだ」
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「へぇ」と亮は目を細めて言った。意外なこと、というより、どちらかというと冷めた感じの、よくやるね、と言いたげな『へぇ』だった。瑞希にもそれは伝わったが、それは想定できるものだったので、かまわずに続けた。
「うん、そうしたら思いの外食い付いてきてさ。セブのことから全部話すことになったよ」
「まじかよ」
 と、今度は先程とは違って、卓也への羨望とでもいうか、そういうものを含んでいた。
「あんなのただの浮浪者じゃねぇか。
 なぁ。って、お前はお気に入りなんだよな、アイツのこと」
「亜沙美ちゃんもな」
 瑞希は皮肉っぽくそう言った。それが亮にとっては、とても悔しい一言になることが分かっていたからだ。
「かーっ、よく分かんねぇな」
 と、亮は顔をしかめた。それから、
「亜沙美ちゃんはああいうのが好みなのか? あんなのがもてるなんてよ。不思議で仕方ないぜ、全く」と言うとビールをぐいと飲んだ。
「そうじゃなくて、ただ興味があるっていうだけだろ。恋愛対象とは思えないな」
 瑞希がそう言うと、亮はにこりと笑って、
「だろ? 結局は見た目とカネだもんな、女なんて
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さ。亜沙美ちゃんのは、若さ故の好奇心ってやつだろうな、世間知らずの。すぐ飽きるよ」と言って横を向いた。それから、
「見ろよ。
 あそこ、合コンだぜ、きっと。いいねぇ、楽しそうで。でもほんとに楽しんでるのは一人もいないな、みんなその場の一瞬だけを楽しんでやがる。
 うまい酒飲んで、その場限りの適当な話で盛り上がって。彼氏が欲しいとか、彼女が欲しいとか、そういう奴は稀だよ、単に酒のつまみでいいんだ、ああいう合コンなんてさ。恋愛はそのついでに過ぎないよ。いや、恋愛っていうか、肉欲、性欲だよな、明け透けな。
 どうだ? 瑞希さ、お前はそんなの馬鹿げたことだと思うか? 平和ボケした、豊かな国の贅沢なことだって、そう思うか? あの卓也みたいに身体ひとつで世界を放浪して自分の才能と理想だけを頼りに生きることが、そんなに高尚だと、そう思うか? そんなことはねぇよ。オレたちにはオレたちの社会があって、生活がある。タダの才能なんて空気と同じだよ、カネになる才能に価値があるんだ、この世界では。そうだろ」と言うと瑞希に同意を求めた。
「つまり卓也には価値がないってことか」
「まあ、少なくとも、オレにはな」
 その亮の言葉を聞き流しながら、瑞希はぐいとビールを飲み干した。亮の言うことは分かるが、それ
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に同意したくはなかった。それは、卓也を否定することに他ならないからだ。
 それから瑞希も亮の眺めていた席を見た。合コン、享楽の宴。才能か、確かにそうだ。卓也の価値は分かる人にしか分からないだろう、芸術なんて所詮そんなもんだ。いや、芸術だけじゃない、何とかの発明とか、数学の公式とか、新種の発見とか、そんなのオレたちには正直、どうでもいいんだ。それよりも消費税が上がるとか大根が値上げとか道路工事で渋滞とか、そういう自分に直接関わる損得にだけ、注意していればいいんだからな。それがこの世界だ。無学で無思考なほど良い国民ってことか。世紀末だな、ほんとに。世紀末。便利なことばだな、これ。
「ま、運良くいいとこに産まれたんだ、その幸運を最大限有効に使わないと。返って失礼だぞ」
 亮はそう言いながら自分の皿にパスタを取り始めた。
「でもそれってアレだろ、選択肢が多いってことでもあるよな。だったら、自分の責任で選択するんだからいいんじゃないか? 卓也みたいに、自分で全部リスクを背負って生きるってのもさ。大体、今の亮の言い方だと、自分の価値観とか人生観を押しつけてるだけって気がするぞ」
 瑞希がそう切り返すと、亮は取り分けていた手を休めて、あはは、と笑って、
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「まあ、そうかもな。だって、オレは自分の考え方が正しいって思ってるんだからな。当然だよ」
 と言ってはにかんで見せた。
「よく言うよ」
 そう言って瑞希は苦笑すると、自分もパスタを皿に取り分け始めた。これ以上、こういう話題で続けていても、ずっと平行線なのは分かっていたし、亮の言う価値観というものにも実際のところ、肯定する部分が大きかった。だが、一番の理由は、酒が入って難しい話をするのが面倒になってきたからだった。
「瑞希、もう空っぽじゃん。次、頼むだろ? またビールでいいよな。
 ん、このパスタうまいなぁ。これ何だろ。菜の花かな」
 そんなにしっかり食べてて注文できるのか、と瑞希は思ったが、まあ亮のことだから平気だろう、と考えて、自分もパスタを食べ始めた。食べ始めると不思議なもので、自分がお腹が空いていたことを思いだした。そしてふと、そういえば、亮とこうやって飲みながら卓也のことを話すのは久しぶりだな、と思った。あれはいつだったかな。卓也から最初の絵葉書が届いた頃だったか。そうだ、そのときに確か、あまり興味が無さそうだったから、この話題は止めようって思ったんだ。まあそうだよな、一緒に居たときからそうだったんだからな。価値観ねぇ。
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価値観。そういう判断っていうものは、一体どのように形成されていくんだろうな。経験かな。まあそうだろうな。人生の道筋次第。それは大げさかもな、その場の勢いっていうか雰囲気っていうか。そういうのもあるよな。
 食べながら瑞希がぼんやり考えていると、通り掛かった店員を亮が掴まえてビールを注文していたので、瑞希はついでに自分の分も頼んでから、
「亮はさ、自分の価値観っていうのがいつ頃出来たかっていうこと、自覚してる?」
 と訊ねた。亮は突然の質問に一瞬顔をしかめたが、「そうだなぁ」と言って考えながら、パスタを口に運んでいた。
「そうだなぁ」ともう一度亮は繰り返して、それから人懐っこい笑顔を見せて続けた。
「いや、全く。なんだろうな、特定できそうで全然出来ないもんだな。で、突然どうしちゃったわけ? さっきの続きか」
「うん、まあそういう感じでもある」
 瑞希がそう言ったときに、丁度二人のビールと先程注文したものがまとめて来たので、あっという間にテーブルはいっぱいになってしまった。話の腰を折られてしまったので、瑞希も、まあいいやと諦め、食べる方に集中することにした。しかし、亮は何か考えているようだった。
「この間来たときにさ」
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 と突然亮は言った。
「鶏の軟骨揚げが美味しくてさ。何か、それを覚えてて。食べたかったんだよね」
 そう言って亮は嬉しそうに軟骨を口に運んだ。それから、
「こういう食べ物の好みなんかも、今言った価値観っていうものなんじゃないの」
 と言って瑞希を見た。瑞希は、もうこの話は一区切り付けてしまっていたので、ちょっと面食らったというか、さっきぼんやり考えていたことを頭の中でもう一度まとめ直すのに時間が必要だった。だから、とりあえず「あぁ」と返事をして、自分も軟骨を口に入れた。
 ものの嗜好。価値観か。ある意味、好き嫌いも価値か。こういうのを全部まとめると、一言で言うと個性ってことだよな。
「価値観って、二つあるんだな」
 と瑞希は呟くように言うと、続けた。
「一つは大きな意味での、社会的な価値観で、もう一つは個人的な、自分の持つ価値観。いろいろ考えてみるとさ、無意識のうちに、結構使い分けてるんだな。この二つをさ。
 で、社会的な価値観の中で、自分の価値観を使うときってあるだろ」
 うんうん、と亮は肯いた。
「それが、恐らく一般的に『個性』って認められて
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いる部分なんだろうな」
「ああ、確かに」と亮は肯いてから、
「価値観っていう言葉にすると、何かピンとこないんだけどさ。結局、個性のことだよな、確かに。社会的な価値観っていうものはさ、結局、世論のことだろ。時代そのものっていうかさ。流動的なものだよな。まあ、根っこの部分でそんなに大きく揺らぎはしないだろうけど」
 そう言うと亮は瑞希を見た。瑞希はゆっくりビールを飲んでいた。
「結局、価値観って何なんだろうな」
 瑞希はジョッキを手に持ったまま、ぼんやり呟くと、亮は、ふんと苦笑して、
「知るかよ」と吐き捨てるように言って今度はサラダを自分の皿に山盛りに取り分けていた。
 
 あらかた皿が空いて、腹が満たされると、瑞希は少し眠くなってしまった。酒のせいかな、と思ったが、ふと駅まで散歩してきたことを思いだして、珍しく歩いたからかも知れない、と考えて驚いた。何とも情けない、と瑞希は思った。この程度で疲れてるのかよ。体力無くなったな、オレも。今何時だろ。
 瑞希は時計を見た。そして驚いた。もう九時になっていた。何だよ、と瑞希は思った。もう二時間も飲んでるのか。そりゃ眠くもなるわな。これ飲んだ
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ら帰るかな。二件目行くなら地元だな、そのときは『Y』でも行くか。いや、待て。でも今日はいいや。帰って寝よ。
 瑞希が時計を覗いたので亮も反射的に時間を確認した。
「もう、九時なんだな」
 亮は瑞希に時刻を確認するかのようにそう言うと、残り少なくなったジョッキを持ち上げて、
「これ飲んだら出ようぜ。
 次行くにしても帰るにしても、とりあえず地元に戻ってから考えよう」と提案した。
「だな」と瑞希は相槌を打った。先程までは帰るつもりだったが、亮がどちらでもいいような曖昧な言い方をしたので、何だかこのまま帰るのはつまらないような気がしてきてしまった。店の外に出たら眠気も吹き飛ぶだろうし、今日中に帰れればいいだろう、と瑞希は考えた。
 そして、亮が空になったジョッキを置くと、それを合図にして二人は立ち上がった。
 外に出るなり、亮はふう、と軽く溜息をついた。
「やっぱり夜になると、まだ寒いな。今日の昼間なんか、絶好調に暖かかったもんな、ほんと、春だなって感じがしたけどさ」
「そうだなぁ。これで夜桜なんて、耐えられないな、寒すぎて」
 瑞希がそう言うと、亮は瑞希を覗き込んで、
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「お、またアレか、毎年恒例の。好きだなー、ほんとに。そんなに楽しいのか」
「そんな訳ないだろ。慣例だよ、慣例。ただの年間行事の一つだ、それ以下でもそれ以上でもない。
 あ、でも今年はある意味楽しいかも知れないぞ。場所取り、亜沙美ちゃんだからな」
 そう言って瑞希は笑った。
「それのどこが楽しいんだよ」
 亮はそう言って苦笑すると続けて、
「あ、分かった。瑞希、お前アレだな、二人で仲良く場所取りする気だな。楽しそうだなー、それは」と言って肘で瑞希を突いた。
「そんな訳ないだろ」
 瑞希はうんざりした様子で言った。亮は笑いながら、その瑞希の反応を面白がっていた。
 桜。なぜ人々はこんなにもこの花が好きなんだろうな、と瑞希はぼんやり考えていた。そういえば、卓也も桜には特別な感情を持っているって言っていたな。桜の価値観か。社会的な。きっと多くの人が、同じように感じてるんだろうな。その連帯感が、より桜を良いものにしているっていうか。感情を共有することで得られる仲間意識っていうか。うーん、よく分からないな。
 あまり静かなので、瑞希は横目で亮を見た。亮も何かを考えているのか、無言で歩いていて、時折気が付いたように、辺りを物色するような眼差しで眺
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めていた。触らぬ神に祟り無し、だな。ほっとこう。瑞希は一人で軽く肯いた。目前の信号が赤に変わったので、立ち止まっていると目の前に立っている人の持っていた大きな郵便小包に目が止まった。郵便。手紙。卓也の手紙、か。意外と今日とか、来てるんじゃないか? もしかしたら。今日、家に帰ったときに卓也からの手紙が届いていたら。今日最後の運試しだ。瑞希は思わずにやけてしまった。
 やがて、目前に地下鉄の入り口の階段が見えてきた。二人は並んで階段を下りていった。
「な、瑞希。二件目どこにする? 行くだろ?」
 と歩きながら亮は訊ねた。さっき考えていたのはそれだったのか、と思うと、瑞希は笑いそうになってしまったが、それを抑えて言った。
「そうだなぁ、『Y』でいいんじゃないの。駅前だし、帰るの楽だし」
 亮は、ふう、ともほう、とも取れるような曖昧な声を出してちょっと考えていたが、
「そうだな。あそこが無難だよな、近いし」
 と納得した様子で肯いた。
 そして二人は駅の中に入っていき、まだ電車の来る時間ではなかったから、そのままホームを歩いて先頭の方まで行くと、足を止めた。瑞希は、ここに来る途中、『Y』を覗いたことを思いだして、それから、遡って朝からの出来事を思い返していた。卓也のことが、頭の中にこびりついて、それがずっと
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残っているのだった。そして、昼休みの亜沙美を伴って、いつまでもその声が、仕草が、ぐるぐると渦を巻いて消えないのだった。こういうのも走馬燈というのかしら、と瑞希は不意に思った。
「夏になったらさ、海行こうぜ、海。な」
 そう言って亮は瑞希の肩を叩き、
「もちろん、四人で行こうな」と続けて言うと悪戯っぽく微笑んだ。
 それを瑞希は聞き流すように、
「前向きに考えとく」と言ってみたが、それも悪くないな、と思った。
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